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天草、殉教の地を訪ねて− 熊本県天草 |
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祇園橋(ぎおんばし) |
天草市本渡船之尾町の町山口川に架けられた石造りの橋。天保3年(1832年)町山口村庄屋大谷建之助が発起し架設したもので、祇園神社(八坂神社)の前にあることから祇園橋と呼ばれるようになったと案内板にあります。石造桁橋で、長さ28.6m、幅3.3mあり、45脚の石の角柱によって支えられている全国的にもめずらしい造りです。1997年、国指定重要文化財指定。 |
1637年11月14日、天草四郎の率いるキリシタン勢と、唐津勢(幕府軍)は、この橋の付近を中心に大激戦を繰り広げました。屍で川の流れが止まったといわれます。 |
天草の乱激戦之跡 |
祇園橋のすぐ近くにある激戦跡の碑。そばに橋本徳壽の歌碑もあります。 町山口川の流れせきとめし 殉教者のむくろ数百千にして 名をとゞめず 徳壽 |
殉教公園 |
今からおよそ400年前に幕を開けたキリシタン殉教の歴史が今なお色濃く残る天草市本渡地区(旧本渡市)。その市街を見下ろす小高い丘陵の上に殉教公園はあります。園内には、殉教戦千人塚やキリシタン墓地、天草切支丹館があって、毎年10月の第4日曜日には、殉教祭が催され、宗派を越えて御霊の供養が行われるそうです。 |
殉教戦千人塚 |
里人たちは、市内数ヶ所に地蔵を建て、町山口川の川原に残ったキリシタン勢と唐津勢の無数の遺骸を祀りました。これらの塚を合祀したのが殉教戦千人塚(写真上)です。 |
天草切支丹館 |
国指定重要文化財の天草四郎陣中旗や隠れ十字仏、マリア観音などの貴重品が展示されています。 |
キリシタン墓地 |
天草郡苓北町 |
砂州の上に開けた富岡の町並み 富岡城跡から望む |
苓北町は、天草諸島の北西部にある町で、江戸時代から天草陶石の産地として知られ、今日でも磁器の原料として富岡港から大量に出荷されています。富岡港や富岡城のある富岡半島は、典型的な陸繋島(りくけいとう=砂州によって大陸や大きな島と陸続きになった島)として知られています。また、砂嘴(さし=沿岸流により運ばれた砂が堆積してできる、くちばし形をした地形)でも知られています。 |
富岡城の歴史 関ヶ原の戦いの後、天草は肥前唐津藩(現在の佐賀県唐津市)の寺沢広高の領地(飛地)となり、寺沢は富岡の地に築城し、代官を配置して天草を支配しました。天草・島原の乱後、山崎家治の領土となった後、復興事業にあたった鈴木重成(しげなり)、重辰(しげとき)の天領時代を経て、天草が戸田氏の私領に戻った寛文10年(1670年)、富岡城は破城されました。破城後も三の丸に代官所が置かれ、富岡は、明治初期まで天草行政の中心としての役割を果たしました。 |
本丸や二の丸などの発掘調査結果を踏まえての石垣、櫓の復元工事が行われ、2005年(平成17)4月、本丸に富岡ビジターセンターがオープンしました。 |
富岡ビジターセンター |
雲仙天草国立公園および天草地域の自然・動植物・海生生物、人々のくらし、人物、歴史などについて、パネルや写真、映像で知ることができるビジターセンター。実存した富岡城本丸多聞(たもん)櫓(やぐら)の城郭建築等をモデルとして、西棟と北棟が配置されています。 |
ビジターセンターより望む島原 |
富岡城を攻め落とせなかった一揆勢は乗船して島原へ渡りました。今から370年前の1637年の冬のことでした。 ユニークな地形である砂嘴(さし)が張り出しているのが見えます(写真上・下) |
城跡展望台より富岡湾と苓北町を望む(新くまもと百景) |
天草・島原の乱で討ち死にしたキリシタン一揆軍の首級1万余りを三分して埋めた首塚のうちの一つ。乱から10年後の1647年に、この地に鈴木重成代官が慰霊のために供養碑(写真下)を建立しました。 |
天草松島は、宮城県の松島、佐世保の九十九島とともに日本三大松島の一つといわれ、大矢野島(天草四郎が幼少をすごし、一揆の拠点とした島)と天草上島の間に広がる瀬戸は、大小19の島々が点在する景勝の地となっています。写真上は、松島温泉から見る天草五橋4号橋。この温泉地から見る夕日はたいへん美しいと評判です(写真下)。 |
夕日と帰舟 松島温泉ホテル竜宮より |
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