レポート  ・キリシタンへの回帰 〜 島原の乱の悲劇   
キリシタンへの回帰 〜 島原の乱の悲劇
今年(2007年)1月中旬に、島原の乱(島原・天草一揆とも呼ばれる)の激戦地となった天草市本渡の祇園橋付近や殉教公園、天草郡苓北町の富岡城跡などを訪ねました。そして、その後、NHK総合テレビで『その時歴史が動いた〜島原の乱・キリシタンの悲劇』(2007年1月24日放送)を観、神田千里氏の著書『島原の乱』(中央公論新社)を読みました。
 
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島原の乱について、教科書的には、島原・天草地方の大名が飢饉のさなかに領民に課した重税と幕府の指示のもとで行なわれた大規模なキリシタン迫害がその原因であったと説明され、また敬虔(けいけん)なキリシタンの殉教戦争だったというイメージがありますが、実情はそう単純ではなかったようです。次のような側面が指摘されています。
 
(1)江戸幕府の禁教令が出されたのは慶長18年(1614年)で、寛永5年(1628年)頃には、キリシタンの勢力はすでに逼塞(ひっそく)状態にあった。それから約10年後の寛永14年(1637年)に島原の乱は勃発している。
 
(2)一揆は、必ずしも重税に苦しむ領民一般の支持を得たわけではなかった。
 
(3)一揆は、非常に宗教色の強い行動であり、武力によるキリシタンへの改宗強制、異教徒(仏教徒など)への攻撃、偶像破壊が見られた。
 
郷土史家・鶴田倉造氏は、領主の苛政や重税・天候不順・凶作・飢餓が契機となった『キリシタンへの復宗運動』であり、神田千里氏は、すなわち『立ち帰りキリシタン』であったと指摘しています。
 
そして、それは流布された終末予言に立脚したものでした。島原の乱が勃発する26年前に国外に追放された宣教師が次のような予言を書き残していたというのです。
     
今から26年後に天変地異が起こり、人は滅亡に瀕するであろう。東の空も西  の空も雲が焼けるだろう。野も山も草も木も皆焼け、住処(すみか)も焼け  果てしまうだろう。そして、必ず善人が一人出現する。その幼い子は習わないのに諸学を極め、人々の頭に十字架を立てるだろう。
 
それは、転宗し葬礼も仏式で行ったことへの報いであって、キリシタンに改宗すれば救われるが、せぬ者はデウスの手で地獄に堕されるだろう。キリシタンになって善人・天草四郎に従うことだ。天草四郎一党の煽動が大量のキリシタンへの『立ち帰り』に大きな影響力を与えます。一揆の指導者たちは、キリスト教隆盛の時に子ども時代を過ごした中年の人たちだったそうです。
 
終末を信じた領民たちはひたすら死を待つために麦の植え付けまでも放棄するという絶望的行動に出、だからこそ、原城篭城にも捨て身で参加したというのです。
 
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ポルトガルやイスパニアなどカトリック教国は、世界各地で植民地政策を進めていました。両国から資金援助を受けていた宣教師たちは、その戦略の遂行に大きく関与していて、キリシタン大名の領国などで改宗活動の扇動を行なっていました。
 
例えば、島原の領主・有馬晴信は、宣教師から鉛や硝石の提供を受ける代わりに領民にキリスト教への改宗を勧め、やがて仏教や神道を異教として攻撃し始め、仏像破壊を行っていきました。有馬晴信がキリスト教へ改宗したのは、強大な竜造寺隆信(たかのぶ)に対抗するためだったといわれています。
 
寛永5(1628)年頃までに、島原からキリスト教は一掃されますが、しかし、一部の領民はコンフラリア(秘密組織)の掟を守りながら、密かに信仰を続けます。そこに、ローマ教皇・ウルバノ8世から『宣教師の大群を送ることにする』という手紙が届いたのです。
 
ポルトガルからの援軍と天草四郎というカリスマの登場。しかし、ポルトガルから援軍が届くことはありませんでした。天草四郎のそばにおれば不死身だというメッキもはげていきます。
 
ポルトガル・イスパニアが各大名を相手に交易と布教をセットで進めたのに対して、オランダは幕府との交易のみの方針をとっていました。『カトリック宣教師は日本人を改宗させて、他の宗教を排斥しようと考えている。そして、宗教の争いを起こさせ、内乱に導こうとしているのだ。』と、家康に訴えたのは、ポルトガル・イスパニアと対立関係にあったプロテスタント教国、オランダでした。
 
幕府は、キリシタン蜂起の連鎖拡大と背後にあるカトリック教国の援軍を恐れ、12万人という大軍で、原城篭城の3万7000人を徹底鎮圧しました。宗教をめぐる国家間の衝突に翻弄されながら、信仰に殉じた島原の乱の悲劇の側面が見えてきます。
 
乱鎮圧の翌年の寛永16年(1639年)、幕府はポルトガル(ポルトガル王はイスパニア王を兼任していた)と断交し、交易を続けたオランダに対してもオランダ商館を出島に移し、日本人とヨーロッパ人との交流は制限されていきます。そして、キリシタン摘発が本格化するのも乱後のことでした。
 
【参考文献】
(1)『島原の乱』(神田千里・著/中央公論新社/2005年10月初版、定価780円)
(2)ふるさと寺子屋塾<No.47>〜「天草、富岡城物語」
(3)NHK総合テレビ『その時歴史が動いた〜島原の乱・キリシタンの悲劇』(2007年1月24日放送)
 
【補遺】
私たちは、迫害を受け信仰に殉じたキリシタンの悲劇に思いを馳(は)せることはあっても、キリシタン大名の領国で同様に、仏教徒らが異教徒として改宗を強制され迫害を受け、偶像破壊などが行なわれことに思いが至ることはあまりないのではないでしょうか。
 
神田千里氏は、著書のなかで、「神国」の神々を崇拝し「天道」を重んじる戦国大名と、デウスに帰依し、日本の神仏への信仰に容赦ない迫害を加えるキリシタン大名とは、実はかなり共通した発想に立っていると書いています。そして、このようにみれば、島原の乱は、双子の兄弟の決定的な対立であったとみることができようと述べています。
 
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  2007.04.04 
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