レポート  ・スペインの歴史   
スペインの歴史(1)  先史時代 〜 レコンキスタ(国土回復運動)
スペインの歴史(2)  新大陸の征服 〜 スペイン独立戦争の後
スペインの歴史(3)  第二共和政 〜 民主化と現在
 
− スペインの歴史(3) −
 
3.1 第二共和政
  
19世紀のスペインでは、1820年に史上初の共和制移行(スペイン第一共和政)が成立しますが短期間で王政復古。この最中に、フィリピンとキューバで独立運動が発生すると、これらの独立戦争にアメリカが介入し、米西戦争が勃発。この戦争で、スペイン軍は短期間で敗退し、カリブ海および太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権をアメリカに譲ることになりました。また、モロッコでのリーフ戦争で大損害を出すなど、国王の権威は更に失墜していきました。
 
ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍の軍事独裁政権(1923〜1931年)を経て、1931年に国王アルフォンソ13世が国外脱出して君主制が崩壊し、スペイン第二共和政が成立しました。バスク州、カタルーニャ州、ガリシア州に自治権を与え、女性に参政権を認めるというものでした。
 
3.2 スペイン内戦
 
しかし、左派と右派との対立は依然として激しく、政治は混迷を続け、1936年に人民戦線政府(社会主義連合政権)が成立すると、スペイン領モロッコへと遠ざけられていたフランシスコ・フランコ将軍がクーデターを起こし、各地で右派による反乱が勃発し、スペイン内戦へと突入しました。
 
ナチス・ドイツとイタリア王国の支援を受けたフランコ将軍が率いる反乱軍と、一方ソビエト連邦の支持を受けた人民戦線側との3年に及ぶ内戦は、1939年のマドリード陥落でフランコ側の勝利に終わりました。この内戦によってスペインは甚大な物的・人的損害を被り、50万人が死亡、50万人が国を捨て、社会基盤が破壊され国力は疲弊しきってしまいました(参考:スペイン − Wikipedia)。
 
 
廃墟と化したゲルニカ(スペイン内戦 - Wikipediaより)
   
スペイン内戦の最中の1937年4月26日、スペイン北部・バスク州の小都市ゲルニカがフランコ将軍を支援するナチスによって無差別空爆を受けました。滞在中のパリでこの報を聞いたピカソは、かねて人民戦線政府より依頼されていた同年のパリ万国博覧会スペイン館の壁画として、急遽ゲルニカの空爆を主題に制作に取り組み、6月4日に完成させたのが、美術史上最高の反戦画といわれる絵画『ゲルニカ』でした。
 
3.3 フランコ独裁政権
 
フランコ政権はドイツ、イタリアのファシズム政権の支援を受け、一党独裁のファランヘ党(1949年に国民運動に改称)は、反共主義、カトリック主義、ナショナリズムを掲げ、軍隊と秘密警察による厳しい支配を行っていきました。スペイン内戦の終結(1939年4月1日)からフランシスコ・フランコの死去(1975年11月22日)までの36年間、フランコ将軍による独裁政治が続いたのでした。
 
1975年、11月22日にフランコ将軍が死去すると、遺言によりフアン・カルロス1世が王座に就き、王政復古がなされました。しかし、フアン・カルロス国王は専制支配を継続せず、スペイン1978年憲法が成立して民主化がなされ、スペイン王国は制限君主制国家となりました。
 
3.4 民主化とスペインの現在
 
1981年には軍政復帰を目論む一部軍人によるクーデターが発生しましたが未遂に終わりました。1982年にNATO(北大西洋条約機構)に加入、同年にはスペイン社会労働党( PSOE) が政権に就き43年ぶりの左派政権が誕生。同年、FIFAワールドカップ開催。1986年にはヨーロッパ共同体(現在の欧州連合)に加入し、1992年にはバルセロナオリンピックとセビリア万国博覧会が開催されました。
 
しかし、一方で、スペインは国内問題を抱えており、 ETA(バスク地方の分離独立を目指す民族組織)によるテロ活動に長年悩まされています。経済的には、21世紀に入ってもスペインは欧州連合の平均を上回る経済成長を続けていますが、今財政赤字に苦しみ、失業率が過去最高の21.29 %(2011年1〜3月)という高水準に達し、政府は対策を迫られています。

 

2011.10.12 
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