レポート | ・スペインの歴史 |
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− スペインの歴史(2) −
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1516年、ハプスブルク家(現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系で、ヨーロッパ随一の名門王家)のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位(在位1516年〜1556年、1519年に神聖ローマ皇帝カール5世としても即位)し、スペイン・ハプスブルク朝が始まり、スペイン帝国の最盛期を迎えることになります。 2.1 新大陸の征服 1492年のコロンブスのアメリカ大陸航路発見以来、新大陸への征服は継続され、コンキスタドールと呼ばれるスペインの探検家、新大陸征服者たちが、アメリカ大陸に渡って先住民を征服し、スペインに大量の金・銀をもたらし、スペイン黄金時代を築いていきます。 しかし、それは、先住民たちの文化・伝統・宗教が徹底的に粉砕され、先住民たちが白人入植者たちに奴隷のように使役されるという犠牲に基づくものでした。すなわち1521年にはエルナン・コルテスがアステカ文明を滅ぼし、1520年代中にはペドロ・デ・アルバラードがマヤ文明を滅ぼし、続いて1532年にフランシスコ・ピサロがインカ文明を滅ぼし、アメリカ大陸本土はあらかたスペインの植民地になっていきました。 2.2 太陽の沈まぬ帝国 カルロス1世と次のフェリペ2世(在位1556年〜1598年)の時代に、スペイン帝国は最盛期を迎えます。南アメリカ、中央アメリカの大半、メキシコ、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島、北イタリアの一部、南イタリア、シシリー、北アフリカのいくつかの都市、現代のフランスとドイツの一部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダを領有するに至ります。 さらに、1580年にフェリペ2世がポルトガル国王を兼ねてポルトガルを併合すると、スペインは、ブラジルやアフリカ、インド洋に広がっていたポルトガルの植民地も獲得し、『太陽の沈まぬ帝国』となりました。 しかし、先住民あるいはアフリカから持ち込まれた黒人奴隷たちの犠牲によってアメリカ大陸からスペインにもたらされた富でしたが、そのほとんどがオランダ、イギリスといった新興国に流出し、スペイン国内に富が蓄積され、国内に産業形成がなされることはありませんでした。 2.3 相次ぐ戦争とスペインの没落 一方で、スペインはあらゆる方面から攻撃を受けることになり、1588年、アルマダ海戦(英仏海峡で行われた海戦)ではイングランド海軍に破れ、またネーデルラント諸州(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクの3ヶ国にあたる地域)がスペインに対して反乱を起こした八十年戦争でオランダが独立し、続いて1640年にはポルトガルが独立します。 その後、30年戦争(プロテスタントとカトリックの宗教戦争に端を発した国際戦争)に介入して敗退すると、1659年のフランスとのピレネー条約締結によって、スペインは覇権を失い、スペインの黄金時代は終わりを告げます。 18世紀に入るとスペインハプスブルク家が断絶し、フランスのルイ14世が孫のフィリップをスペイン王にしようとしましたが、各国が異議を唱えてスペイン継承戦争が勃発。結果、フィリップが即位することは承認されたものの、イギリスにジブラルタルを割譲し、海外におけるスペインの影響力が著しく低下していきます。 その後、オーストリア継承戦争、7年戦争に参加しますがイギリス、フランス、オランダなどの新興勢力の後塵を拝することとなりました。一方で、国内産業の成長が進み、1759年に即位したカルロス3世によってある程度の中興が果たされます。 2.4 ナポレオンの侵攻とスペイン独立戦争 1793年、スペインはフランス革命戦争(革命後のフランスと、反革命を標榜する対仏大同盟との一連の戦争)に対フランス側として参戦しますが敗れ、スペインはフランスの衛星国となってしまい、1805年、フランス海軍とともにトラファルガー海戦を戦いイギリスに惨敗。1807年、産業革命中のイギリスを封じ込めようとするナポレオンの大陸封鎖令に参加。 しかし、戦争とその他の要因で経済が崩壊状態になり、カルロス4世と次に即位したフェルナンド7世が退位させられ、1808年、ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトがスペイン王ホセ1世となり、カタルーニャはフランス帝国の直轄地になります。 しかし、スペイン人はこの外国の傀儡国王は恥辱とみなし、それに反発し1808年3月マドリードで反乱を起こします。これが全土へ広がり、『スペイン独立戦争』と呼ばれる内戦に突入していきます(マドリード市民の武装蜂起の様子は、のちにゴヤによって絵画『1808年5月2日』『1808年5月3日』に描かれることになります)。 ナポレオンは自ら兵を率いて介入しますが、スペイン軍のゲリラ戦術とイギリス・ポルトガル軍を相手に泥沼にはまり込んでしまい、その後のナポレオンのロシア遠征の破滅的な失敗により、1814年にフランス勢力はスペインから駆逐され、フェルナンド7世が復位しました。 2.5 スペイン立憲革命とその失敗 スペイン独立戦争が勃発した後の1812年に『1812年憲法』が制定されていましたが、復位したフェルナンド7世はこの民主的近代改革を放棄し、絶対君主制を敷きます。 これに自由主義者たちが反発、ラファエル・デル・リエゴ・イ・ヌニェス大佐が率いる部隊が『1812年憲法』復活を求め、反乱を起こします。事態を収拾するために国王フェルナンド7世は『1812年憲法』の復活を承認し、1820年には、憲法復活を宣誓しました。いわゆる『スペイン立憲革命』です。 しかし、このような急進的な自由主義革命は神聖同盟加盟諸国と隣国フランスを刺激し、1823年フランス軍10万がピレネー山脈を越えて、進軍。フランス軍とスペイン革命軍との間で戦争が起こり、フランス軍が勝利し、フェルナンド7世が国王に復位。リエゴ・ヌニェスは処刑され、スペイン立憲革命は失敗して終結。 『スペイン立憲革命』は失敗しましたが、リエゴ・ヌニェスはスペイン自由主義運動の象徴となり、彼を歌った『リエゴ賛歌』は、1931年のスペイン第二共和制の時の国歌となります。 |
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2011.10.05 | ||||
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