レポート  ・篤姫と島津牡丹   
− 篤姫と島津牡丹 −
島津家の別邸だった鹿児島市磯の『仙巌園』(せんがんえん)では、毎年冬になると、『島津牡丹展』が開催されます。牡丹は、島津家とゆかりの深い花で、島津家の家紋は、一般に『丸十紋』が有名ですが、『牡丹紋』も家紋の一つとして鎌倉時代から使用されてきたそうです。
 
今和泉島津から藩主斉彬の養女になった篤姫は、さらに近衛家の養女となり将軍家に嫁しますが、NHK大河ドラマの3月23日の放映で篤姫は、いよいよ鹿児島を後にしました。将軍家定の死によって、24歳の若さで仏門に入った篤姫は以後『天璋院』と名乗ります。薩摩藩からの薩摩帰国の申し出を拒否し、維新後も明治16年(1883年)、49歳で死去するまで、徳川家由来の人たちや元大奥の下々の人たちの援助に奔走し、二度と薩摩の地を踏むことはありませんでした。
 
元々、近衛家と島津氏は関係の深い間柄でした。島津氏の祖である惟宗忠久(これむね・ただひさ)が、近衛家の執事職にあった惟宗広言という人を養父にしたところから、島津氏と近衛家の関係が始まりました。
 
京下りの公卿の一人として鎌倉幕府へ勤仕した惟宗忠久は、文治元年(1185年)に、源頼朝から近衛家の荘園である島津荘(現・都城市など)の下司(げし=荘園の現地で実務をつかさどる荘官の一つ)に任命され、荘園名をもって島津忠久と称したのが島津氏の始まりとされます。
 
家紋に牡丹を初めて用いたのは近衛家でしたが、承久3年(1221年)に、島津忠久が、近衛家から牡丹紋を賜ったのを始まりとして、島津家でも用いられるようになりました。島津家の牡丹紋は、『島津牡丹』と呼ばれ、家具や調度品に数多く描かれてきたそうです。
 
2006年の牡丹展を取材したページがあるので、ご覧下さい。鮮やかな紅の花を咲かせる『島津紅』は、仙巌園で永い年月をかけて栽培に取り組んできた希少種です。また、『黄冠(おうかん)』も希少種で、黄色い豪華な大輪を咲かせます。
 
・島津牡丹展 − 鹿児島市仙巌園(2006.12) 
  → http://washimo-web.jp/Trip/Botan/botan.htm
 
2006年の冬といえば、NHK大河ドラマ『篤姫』が始まる一年前のことでしたが、会場には、篤姫39歳のときの写真が展示されていました。そして、その説明に、篤姫の婚礼調度品には、徳川家の『三ツ葉葵紋』と近衛家の『牡丹紋』が描かれていたとありました。
 
【エピソード1】島津家発祥の地をめぐる論争〜出水と都城
 
近衛家の所領だった島津荘は、薩摩・大隅・日向にまたがる広大な荘園で、万寿3年(1026年)頃、大宰府の役人だった平季基という人が現在の宮崎県都城市を中心とする荒野を開発し、摂関家の藤原氏に寄進したのが始まりとされています。
 
一方、鹿児島県出水市には、建久5年(1194年)、初代島津忠久によって創建された感応寺(かんのうじ)という禅寺があります。島津家の菩提寺だったことで知られ、境内には、初代から5代までの島津家の墓があります。
 
NHKは、1月20日の大河ドラマ本編終了後の『篤姫紀行』のコーナーで、出水市を島津家発祥の地として紹介しました。これに異議を申し立てたのが、宮崎県都城市でした(都城は、東国原宮崎県知事の出身地でもあります)。都城市の申し立てと要望を受けて、NHKでは、3月30日の放送で都城のことを紹介するようです。
 
エピソード2】仙巌園・曲水の宴
 
仙巌園では、毎年4月の第一日曜日に、古式ゆかしく豪華絢爛に『曲水の宴』が開催されます。2006年に取材したページがあるので、ご覧下さい。薩摩藩の財政改革を行なった調所笑左衛門の七代目ご子孫・調所一郎氏や都城島津家・島津久友氏などの和歌もご覧になれます。
 
・曲水の宴 − 鹿児島市仙巌園(2006.04) 
  → http://washimo-web.jp/Trip/Kyokusui/kyokusui.htm
 

2008.03.26
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