コラム | ・入来麓かやぶき門 |
− 入来麓かやぶき門 −
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毎年5月中旬の日曜日に開催される渋谷・鹿児島おはら祭。7年前に第12回を見に行きました。何しろ、あの渋谷の道玄坂繁華街が真昼の12時から夕方5時まで交通規制されておはら祭一色になるのですから、会場に鹿児島おはら節が流され、踊り連が一斉に踊り出したときには、感動で涙が出てしまったものでした。 第19回の今年は伊勢志摩サミットの開催にともない、危険回避の観点から、6月12日(日)に延期されて開催されるとのことです。鹿児島と渋谷の結びつきは、渋谷氏薩摩下向の歴史に由来します。 現在の神奈川県の一部などを所領していた渋谷氏は、関東での鎌倉方への戦功により、鎌倉初期は御家人・千葉氏の所領であった川内川下流域の薩摩地方を統治することになります。 渋谷光重は宝治2年(1248年)、長男の重直のみを相模に残し、二男以下の男子5兄弟を薩摩に下向させ、東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城を統治させました。それぞれの領地で勢力を張っていた渋谷氏一族でしたが次第に島津氏に屈して行きました。 入来(現在の薩摩川内市入来町)に城を構えていた入来院氏も勇猛な武家ながら、戦国時代末期になると、ついに島津の力に屈し、統治していた地方のほとんどを献上し、島津氏の門閥に下ります。 しかしながら、入来の地を安堵された入来院氏は重聡のとき娘『雪窓』を島津貴久の嫁に出すなどして島津の一族となり、入来院による入来の統治は明治2年(1869年)に領地を返還するまで続きました。一家の領主が 620年にわたり、同一地域を治めるのは日本でも珍しく、肥後人吉(現在の熊本県)の相良氏と並ぶ歴史を持っているといわれます。 その入来は、昭和4年(1929年)アメリカのエール大学の教授・朝河貫一氏(福島県二本松市出身)により入来院家に伝わる入来院家文書が翻訳され、『入来文書』として刊行されたことによって有名になりました。 中世から江戸期にかけて形成された入来麓の武家屋敷群は、平成15年(2003年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。全国にある国の重要伝統的建造物群保存地区の中で、入来麓ほど観光商業化されていない保存地区は少なく、稀有な存在です。 静かな佇まのなかで普通の日常生活が営まれています。まさしく通が好む保存地区。その入来麓のシンボルともいえる庶流入来院家のかやぶき(茅葺)門が昨年8月の台風15号で倒壊してしまいましたが、460万円をかけてこの春修復されました。 5月13日訪ねてみると、門の下で小学生の観光ガイドのボランティアがお客さんを待っていました。この日は、200数十名の団体客がある予定だったそうです。
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2016.5.21 | ||||
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