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旅行記 ・薬丸野太刀自顕流 演武 − 東京都渋谷  2009.5.17
やくまるのだちじげんりゅう
薬丸野太刀自顕流
東郷神社神殿(渋谷区神宮前)
2009年5月17日(日)、
東京渋谷で開かれた
第12回『渋谷・鹿児島おはら祭』の
イベントの一つとして、
東郷神社神殿前広場(渋谷区神宮前)で
『薬丸野太刀自顕流』(通称、薬丸流ともいう)の
演武が披露されました。
すさまじい演武の様子のいくつかを
アップロードしました。
新選組局長・近藤勇が
”薩摩の初太刀をはずせ”と部下に命じた
というすさまじい剣法、『薬丸野太刀自顕流』。
 
すさまじさゆえに、
薩摩藩第27代藩主・島津斉興は、
その稽古を見た際に
『まるでキチガイ剣術じゃ』といって
席を立ったといわれます。
『蜻蛉(トンボ)』の姿勢(写真上・右)
桜田門外の変で、大老井伊直弼を
篭より引きずり出して
断首殺害した有村次左衛門。
 
伏見寺田屋騒動で島津久光の命に従い
同志を上意討ちし、のちに
初代鹿児島県令になった大山綱良。
しかし、
時の家老・調所広郷の建議によって、
薬丸野太刀自顕流は、師範家として復活。
 
『郷中(ごじゅう)教育』
取り入れられると、下級藩士を中心に伝わり、
門弟たちの中から明治維新の元勲が
数多く出たため、
『明治維新を叩きあげた剣』といわれる
までになりました。
keis立木打ち(横木打ち)
生麦事件の奈良原喜左衛門。
そして、
幕末から明治に活躍した
桐野利秋、西郷従道、
東郷平八郎などは、皆、薬丸流の
達人だったそうです。
抜き
『蜻蛉(トンボ)』の姿勢を基本とし、
横木打ちを反復して練習します。ちなみに、
時代劇などでよくいう『蜻蛉の構え』の
『構え』は防御の型を
意味する言葉なので、
薬丸流の修業者は、この呼び方を
嫌うそうです。
抜き
薬丸流は、
先制攻撃を重視する
流派であり、万一、敵に先制攻撃を
仕掛けられた場合には、
自分が斬られるより先に一瞬の差で
相手を斬るか、
相手の攻撃を自分の攻撃で叩き落とすかで対応し、
防御のための技は一切無いと
いわれます。
立木打ち(続け打ち)
また、
抜刀術的な技である『抜き』も備え、
『抜即斬』(ぬきそくざん)と称される神速の
攻撃は、刀を腰に差した状態からの
電光石火の斬り上げであり、
かわすのが困難だったと云われます。
そして、
一度刀を抜いたら相手を斬り殺すまで、
攻撃を止めることがありません。
 
長木刀
生麦事件の際、
奈良原喜左衛門は、
洋馬(日本産の馬より背が高い)に
乗ったイギリス人に対し、
『抜き』で抜刀しながら
飛び上がり
斬り付けたといわれている。
長木刀
薬丸流には、
複雑な精神論は存在せず、ただ、
『一の太刀を疑わず、二の太刀は負け』
という『一撃必殺』の精神を
尊ぶといいます。
槍止め(小太刀)
【薬丸野太刀自顕流の歴史】
■『薬丸野太刀自顕流』とは、薩摩藩士・薬丸兼陳(やくまるけんちん)が示現流(じげんりゅう)を修めた後、家伝の野太刀(のだち)の技を元に編み出した剣術のことです。野太刀自顕流、薬丸流、あるいは単に自顕流とも呼ばれます。読みが同じなため、しばしば示現流と混同されますが、示現流とは別のものです。なお、野太刀とは、長い刀のことであり、現在の木刀には、南九州で一番固い木であるといわれるイスノキ(柞の木)が使われています。■平安時代中期の安和2年( 969年)、薩摩国に下向し大隅(鹿児島県の大隅半島)の豪族肝付氏の祖となった伴兼行(ばんかねゆき)が伝えた伴氏家伝の野太刀の技が源流だといわれます。肝付氏の分家に薬丸家があり、薬丸家は肝付氏の代々家老を務めながら家伝の野太刀の技をも伝えたといわれます。天正8年(1580年)、肝付氏が島津氏に服属すると、薬丸家も島津氏の家臣となります。その時の当主だった薬丸兼成の孫が薬丸兼陳であり、兼陳は家伝の野太刀の技を学ぶとともに、屋敷が近所で祖父の縁があった東郷重位(示現流開祖)の門下となり示現流を修め、五高弟の一人に数えられるまでになりました。この後、薬丸家は代々東郷家の高弟となり、示現流を盛り立てて行きますが、薬丸家には元々家伝の野太刀の技があり、代々の薬丸家当主は示現流の影響を取り入れながらも徐々に独自の剣術を形作って行きました。そして、江戸後期の薬丸兼武に至り、ついに示現流より独立して、如水伝、ジゲン流(薬丸自顕流)を立ち上げ、薬丸自顕流初代師範となります。しかし、示現流との間で弟子の移動があってトラブルになり、また、島津家の覚えも良くなく、兼武は屋久島へ流刑となり、屋久島で没しました(『はなまるマーケット』の司会者として活動中の薬丸裕英さんは、ご両親が鹿児島出身で、薬丸氏の末裔ではないかといわれています)。■さて、兼武の子の薬丸兼義の代に、藩よりようやく剣術師範家として認められました。藩主・島津斉興は乗り気でなかったと伝えられているにもかかわらず、師範家として復活した陰には、当時軍制改革の責任者として就任したばかりの家老・調所広郷の建議があったといわれます。
本ページの文章は、薬丸野太刀自顕流の歴史を含めて、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考、あるいは引用・転載して作成しました。
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