♪Prologue
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春、入来麓の風景鹿児島県薩摩川内市
                       
市町村が条例等により決定した伝統的建造物群保存地区のうち、特に価値が高いものとして国(文部科学大臣)が選定したものを『重要伝統的建造物群保存地区』といい、2007年12月現在、日本全国で80地区が選定されています。鹿児島県薩摩川内(せんだい)市入来(いりき)町の入来麓もその一つで、2003年(平成15年)に選定されました。重要伝統的建造物群保存地区といえば、お目当ての観光スポットとして観光客が絶えないのが普通ですが、入来麓は、全く観光地化されておらず、観光客がほとんど来ない珍しい保存地区です。そんな入来麓の春の風景をアップロードしました。   (旅した日 2008年04月)
入来麓
−重要伝統的建造物群保存地区(武家町)−
入来麓の屋敷割り
入来(いりき)は、鎌倉時代、関東の豪族として、現在の東京・渋谷に城を持ち、また相模の国(現在の神奈川県)に勢力をもっていた渋谷氏が、宝治元年(1247年)に、鎌倉幕府から薩摩国のこの地を与えられて下向し、根拠地としたところです。
渋谷氏は、入来院と名乗り、居城として山城・清色(きよしき)城を築きました。その清色城を背景に山裾に近世の地頭館(お仮屋)を置き、東を流れる樋脇川(清色川)との間の平地を中心的な武家集住地として、集落が形成されました。
入来院氏は、16世紀中期頃に島津の軍門に下りますが、近世は島津大名家御家門の一に数えられ、鎌倉以来明治維新までの 620年余りに渡ってその社稷(しゃしょく)を全うしました。
庶流入来院家の茅葺(かやぶき)門
また、薩摩・大隅・日向の三州を統一を果たした第16代島津家当主・島津義久、その弟で、関ヶ原の戦いの敵中突破で知られる島津義弘らの母(雪窓夫人)は、入来院11代当主入来院重総の娘でした。庶流入来院家の茅葺(かやぶき)門(写真上)は、入来麓の代表的な景観となっています。
保存区にされているのは、東西約400m、南北約500mの19.2hrの範囲で、中ノ馬場(なかんばば)と呼ばれる南北に走る大通りを境にして東半分は東西に走る5本の道路によって整然と屋敷割りさせ、西半分は湾曲する路地に沿って不整形に屋敷割りされています。
中世から江戸期にかけてつくられた入来麓の屋敷割りの特徴は、何といっても樋脇川の自然石を使った独特の玉石垣とその上に植えられた茶やイヌマキなどの生垣にあります。

東西方向にのびる小路には、船瀬馬場(ふなせんばば)、上ノ馬場(かんのばば)、十文字馬場(じゅもしばば)、犬ノ馬場(いんのばば)、竪馬場(たっばば)、尾迫馬場(おさこんばば)などの名前が付けられています。

樋脇川から採取した自然石を丹念に積んだ石垣は、素朴ながら、美しい幾何学模様を呈しています。

保存地区内には約100世帯、160人が居住しており(平成17年1月現在)、 母屋・付属屋・土蔵の修理や修景など、平成17年度から保存事業が始まっています。
入来麓は、他の重要伝統的建造物群保存地区と違って週末や観光シーズンでも観光客がほとんど来ないところで、いわば玄人好みする場所といえるでしょう。
そして、保存地区の住民の約6割が年金暮らしという状況のなかで、住民による文化財保護の取り組みがなされています。
清色城は、薩摩川内市入来支所の裏山が跡地で、東西750m、南北600mにわたる尾根上に本丸・松尾城・西之城・中之城などの曲輪(くるわ)が設けられていました。地頭館が置かれていたところは、現在入来小学校(写真上、下)になっています。
地頭館跡(入来小学校)の正門に上がる坂道で(写真下)。


【伝統的建造物群保存地区データ】
名称:薩摩川内市入来麓伝統的建造物群保存地区【武家町】
区分:重要伝統的建造物群保存地区/面積(ha): 19.2/所在地:鹿児島県薩摩川内市
選定年月日: 平15.12.25
 入来薪能  玉石垣の武家屋敷群    霧ヶ峰昭和寺と入来薪能

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