♪エレジー(ラフマニノフ)
Piano1001

     
     
旅行記 ・米沢を訪ねて − 山形県米沢市 2010.03.27
       
上杉家廟所
快晴の空から突如雪になった上杉家廟所
上杉家歴代藩主の廟所(びょうしょ)で、藩祖謙信公を中央にしてその両側に12代までの藩主の廟が並んでいます。謙信公の遺骸は、甲冑をつけ甕に納められ、越後春日山(現新潟県上越市)から会津(現福島県会津若松市)を経て米沢城へ移されましたが、1876年(明治9年)、米沢城解体に伴い当廟中央に移葬されました。1984年(昭和59年)、国の重要文化財に指定。
雪になって、ドラマに出てくるようなシーンに遭遇できました
米沢藩 米沢は戦国時代、伊達氏の本拠地でしたが、豊臣秀吉によって伊達政宗が陸奥岩出山に転封させれられると、蒲生氏ついで上杉氏の支配下に入りました。会津120万石を領していた上杉景勝は、うち米沢30万石を与えて家老・直江兼続を米沢に入れました。しかし、上杉氏が関ヶ原の戦いに先立って徳川家康に敵対したため、景勝は30万石に減知され、居城も米沢に移されます。兼続は米沢城を景勝に譲り、ここに米沢藩が成立しました。相次ぐ減知移封にもかかわらず6,000人ともいわれる旧家臣団を抱えたままだったので、米沢藩は、当初から厳しい財政難に苦しめられました。さらに、3代藩主綱勝の急逝によって15万石に減知されます。救いようのない極限の藩財政窮乏の中で、上杉鷹山の登場となります。more
春日山林泉寺
雪は、春日山林泉寺にも降り続けます
上杉家廟所が上杉家歴代藩主の廟所であるのに対して、春日山林泉寺は、上杉家の武将や直江兼続の墓がある上杉家の菩提寺です。曹洞宗の寺で、移封によって越後から米沢へ移転してきました。
直江兼続の墓
直江兼続夫妻の墓。向って左が兼続、右がお船の方
直江兼続 なおえ かねつぐ(1560年〜1619年)。上杉景勝の重臣として活躍した知勇兼備の名将。戦国時代にあって『義』を貫いた人間性は、豊臣秀吉から一目置かれた存在でした。『愛』の一字を掲げた兜で有名。2009年NHK大河ドラマ『天地人』の主人公。景勝が減知移封により米沢に入ると、兼続は米沢城を景勝に譲り、米沢の建設に着手します。荒蕪地の開拓、水利の疏通、産業の開発、学問の興隆等に手腕を発揮し米沢藩の基礎を築きました。
上杉神社

藩祖・上杉謙信公の銅像
明治に入って謙信の遺骸が上杉家廟所に移されると、米沢藩中興の名君である上杉鷹山を合祀し、山形県社『上杉神社』とされました。1902年(明治35年)に、鷹山は新たに設けた摂社『松岬神社』に遷され、上杉神社は再び謙信のみを祀る神社となりました。境内入口の右手には謙信公の像、参道左手には鷹山公の像があります。
上杉神社 米沢藩の藩祖・上杉謙信を祀る神社で、松が岬公園(米沢城址)内にあります。上杉謙信(初名を長尾景虎)が越後春日山城で急死した際、遺骸は城内に仏式にて祭られましたが、次代の上杉景勝が会津藩を経て慶長6年(1601年)米沢藩へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢城内に遷されました。
   
    
上杉鷹山

鷹山公の銅像(上杉神社)
上杉鷹山
うえすぎようざん(1751年〜1822年)。上杉治憲(はるのり)。日向高鍋藩(現宮崎市高鍋町)藩主・秋月種美の次男として江戸藩邸で生れる。米沢藩8代藩主上杉重定の養嗣子となって、16歳の若さで9代藩主に就任。民政家で産業に明るい竹俣当綱(たけのまた・まさつな)や財政に明るい莅戸善政(のぞき・よしまさ)を重用し、先代任命の家老らと対立しながらも、自らもこれまで1500両だった藩主の江戸での生活費を209両余りに減額し、奥女中も50人から9人に減らすなど倹約を実行。藩士にも帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行う。また、曾祖父の4代藩主綱憲が創設しのちに閉鎖されていた学問所を藩校・興譲館として再興、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。これらの施策で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定の時代に借債を完済した。35歳の若さで家督を前藩主・重定の実子で鷹山の養子であった上杉治広(鷹山が養子となった後に生まれた)に譲り隠居。米沢城三の丸に建設された餐霞館(さんかかん)に移り住み後継藩主を後見し藩政を実質指導。治憲の名より、隠居後剃髪して号した鷹山の名の方が著名。疲労と老衰により死去。享年72(満70歳没)。more
鷹山公が隠居後過ごした餐霞館(写真下)
鷹山公の誓い(上杉神社)
   受つぎて 国の司(つかさ)の身となれば
        忘るまじきは 民の父母

  
17歳の時、藩主就任と同時に詠んだ自製の歌だといわれるこの歌は、『藩政改革は、藩民のために行うものだ』という改革の目標と自らの覚悟を詠ったものです。

上杉鷹山を祀る『松岬(まつがさき)神社』には、鷹山の下で改革を担った竹俣当綱や莅戸善政なども合祀されています(写真上)。
上杉記念館(上杉伯爵邸)
情緒ある佇まいの上杉記念館(上杉伯爵邸)。
明治29年、元米沢城二の丸・寺院跡に最後の藩主・上杉茂憲の邸宅として建てられたもの。大正8年の米沢大火で焼失したため、銅板葺き、総ヒノキの入母屋づくりの建物と東京浜離宮に倣って造園された庭園が作られました。現在はお食事所として、懐石などを楽しむことができます。
   
旧米沢高等工業学校本館
ルネッサンス様式を基調とした旧米沢高等工業学校本館。
米沢高等工業学校は、1910年(明治43年)に全国7番目の高等工業学校として開設しました。米沢工業専門学校と改称された後、学制改革によって山形大学工学部に改組され、現在に至っています。ルネッサンス様式を基調とした木造2階建ての建物は、1973年(昭和48年)に国重要文化財に指定。現在の米沢駅はこの建物をモチーフにして設計されたものです。
米沢駅
旧米沢高等工業学校本館をモチーフにして設計された米沢駅
藩政建て直しの鍵となる政策として、鷹山は、それまで米作一辺倒だった米沢で、漆や楮・桑、藍や紅花など米沢の風土にあった作物の栽培を奨励しました。それも、収穫した作物を加工して付加価値を高め、商品として藩外に輸出販売するというものでした。紅花染めの米沢織や笹野一刀彫、米沢鯉などが伝統工芸品や特産品として今なお健在です。
米沢駅前の歓迎案内板(写真左)と米沢駅ホームの観光案内(写真右)
米沢駅の舗道で米沢のまつりをデザインした綺麗な敷石を見つけました。毎年4月29日〜5月3日に行われる『米沢上杉まつり』では、戦国史上最大の戦いといわれる上杉・武田両軍の激突『川中島合戦』が、市内を流れる松川の河川敷で再現されるそうです。
米沢のまつりがデザインされ舗道の敷石(米沢駅で)
          
【編集後記】
2010年3月の最後の週末、60歳定年退職の記念を兼ねて訪ねた山形・仙台への旅は最初の訪問先が米沢市でした。昨年のNHK大河ドラマ『天地人』を熱心にみていた連れ合いの思い入れもありましたし、著者としては鷹山公由来の場所を訪ねたかったのです。雪になって・・・ 米沢駅で拾ったタクシーはまず上杉神社に向かいました。晴れた空なのに運転手さんが雪になってくるよといいます。そうかなと思っていると、なるほど、上杉神社を見終わった頃、曇ってきて直に雪が舞ってきました。お蔭で、ドラマに出てくるような上杉家廟所や旧米沢高等工業学校本館の雪の光景に出会えたのでした。何よりの歓迎のプレゼントだなと思いました。米沢牛の牛丼・・・ 米沢といったら忘れてならないのが米沢牛。米沢市及びその周辺の置賜(おきたまち)地方において12ヵ月以上飼育された黒毛和種のことをいい日本三大和牛(松阪牛・神戸牛・近江牛)に次いで有名だそうです。美味しいそうですが、値段も張ります。市内のレストランのウインドウを覗いてみると、ランチメニューはどこも、2,500〜3,000円以上ばかりです。そこで、牛丼にすることにし、入ったのが米沢駅前にある『食房杵』さん。1,200円ぐらいでしたが、牛丼でもさすが日頃食べている牛丼屋の味と違って美味しかったです。
芋焼酎・・・ 店内に『本格焼酎鹿児島からの一滴』とあります。お店の人にたずねてみると、鹿児島の芋焼酎をお店のオリジナルとして瓶詰めしているものだそうです。ちょっぴり嬉しくなりました。米沢牛の恩人・・・ 正坐した上杉鷹山公の像が松岬神社にありますが、その横に『米沢牛の恩人』という記念碑があります。明治4年(1871年)、旧藩校・興護館に洋学教師として招聘された英国人チャールズ・ヘンリー・ダラスは、米沢滞在中に食した牛肉が非常に美味しかったことから、同8年、任期が満了して横浜の外国人居留地に帰る際、米沢の土産として生きた牛を連れ帰り御馳走しました。それがとても美味しかったので大評判になりました。間もなくダラスの伝手により地元生産者が横浜の牛肉問屋と契約を取付け、米沢産の牛を販売するようになりました。それが米沢牛の歴史の始まりだったそうです。
【参考図書およびサイト】
[1]童門冬二・著『小説上杉鷹山』(集英社文庫/平成8年12月第一刷発行)
[2]藤沢周平・著『漆の実のみのる国』(上)・(下)(文春文庫/2000年2月)
[3]フリー百科事典ウィキペディア
[4]上杉の城下町米沢観光情報から米沢市の概要
 レポート ・米沢藩の歴史
あなたは累計
人目の訪問者です。
 
Copyright(C) WaShimo All Rights Reserved.