レポート  ・米沢藩の歴史   
− 米沢藩の歴史 −
今年(2010年)3月最後の週末、60歳の定年退職記念を兼ねて連れ合いと山形と仙台を訪ねた最初の訪問先は山形県米沢市でした。米沢といえばまず、日向高鍋藩(現宮崎県高鍋町)から若くして養子に入り、藩政改革に取り組んで藩の窮乏を救うことに成功した上杉鷹山(ようざん)でしょうか。
 
米沢を訪問するに当たり、米沢の歴史について調べてみました。昨年のNHK大河ドラマで、米沢市を舞台とする『直江兼続』を主人公とした『天地人』が放映されたこともあって、米沢の歴史については多くの方がご存知だと思いますが、上杉鷹山の改革までの米沢藩の歴史を簡単にまとめてみました。
 
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米沢は戦国時代、伊達氏の本拠地でしたが、1591年(天正19年)に豊臣秀吉によって伊達政宗が陸奥岩出山(現宮城県大崎市)に転封されられると、その後は蒲生氏ついで上杉氏の支配下に入ります。1598年(慶長3年)、上杉景勝は越後から会津 120万石に加増移封されると、うち米沢30万石を家老・直江兼続に与え米沢に入れました。
 
しかし、上杉氏が関ヶ原の戦いに先立って徳川家康に敵対したため、1601年(慶長6年)、景勝は会津 120万石から30万石に減知され、居城も米沢に移されました。兼続は米沢城を景勝に譲り、ここに米沢藩が成立しました。
 
この際、旧来の家臣について全く減員されませんでした。つまり、謙信時代の数100万石から会津 120万石そして米沢の30万石へと減封され、藩域も大幅に減少したのにもかかわらず、依然として6000人ともいわれる家臣団を抱えたままだったのです。米沢藩は、藩成立の当初から厳しい財政難に苦しめられます。
 
それでも、1601年の減知移封以来約60年の間に藩の体制も整い、新田開発を進めるなどして藩財政もようやく安定を見ようかという矢先の1664年(寛文四年)、3代藩主綱勝が急逝してしまったのです。夫人は会津藩保科正之の娘でしたが子もなく病死していたので、上杉家は家督を継ぐ者が決まっておらず、改易処分の窮地に立たされました。
 
ところが、保科正之の奔走によって、吉良義央(きらよしひさ、あの忠臣蔵の敵役で知られる吉良上野介(こうずけのすけ))の実子綱憲(母は綱勝公の妹)を養子という名目で上杉家に入れ、家名相続が保持されることになりました。
 
1664年(寛文4年)、わずか2歳で綱憲が4代藩主となりますが、米沢藩は深刻な財政難にもかかわら、吉良家の普請や浪費による負債を立て替えることが恒例となり、綱憲自身も江戸藩邸などの新築、参勤交代などでの奢侈を行ない、藩の財政はますます深刻化していきました。
 
いよいよ藩財政が救いようのない極限の窮乏状態になるなかで、1764年(明和元年)8代藩主重定は、15万石の封土を幕府に返納し、収拾のつかなくなった事態を打開しようと決心しますが、幕府の藩政再建の指示もあって翻意したといわれます。ここで登場するのが、上杉治憲(鷹山)です。
 
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上杉鷹山(うえすぎ・ようざん) 
 
1751年〜1822年。本来は、上杉治憲(うえすぎ・はるのり)。父は日向高鍋藩藩主・秋月種美の次男として江戸藩邸で生れる。米沢藩8代藩主上杉重定の養嗣子となって、16歳の若さで9代藩主に就任。
 
民政家で産業に明るい竹俣当綱(たけのまた・まさつな)や財政に明るい莅戸善政(のぞき・よしまさ)を重用し、先代任命の家老らと対立しながらも、自らこれまで1500両だった藩主の江戸での生活費を209両余りに減額し、奥女中も50人から9人に減らすなど倹約を実行。藩士にも帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行う。
 
また、曾祖父の4代藩主綱憲が創設し後に閉鎖されていた学問所を藩校・興譲館として再興、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。これらの施策で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定の時代に借債を完済した。
 
35歳の若さで家督を前藩主・重定の実子で鷹山の養子であった上杉治広(鷹山が養子となった後に生まれた)に譲り隠居。米沢城三の丸に建設された餐霞館に移り住み後継藩主を後見し藩政を実質指導。治憲の名より、隠居後剃髪して号した鷹山の名の方が著名。疲労と老衰により死去。享年72(満70歳没)。
 
   受つぎて 国の司(つかさ)の身となれば
              忘るまじきは 民の父母
 
17歳の時、藩主就任と同時に詠んだ自製の歌だといわれるこの歌は、『藩政改革は、藩民のために行うものだ』という改革の目標と自らの覚悟を詠ったものです。
 
   なせば成る なさねば成らぬ何事も
           成らぬは人の なさぬなりけり
 
これはよく知られている鷹山の名言ですね。『何かをなし遂げようという意思を持って行動すれば、何事も達成に向かうものである。ただ待っているだけ、何も行動を起こさなければ何事も達成には向わない。達成されないのは、人がなし遂げるようとしなからである。』
 
35歳の若さで家督を上杉治広に譲ったとき、鷹山は新藩主治広に、『人君の心得』として、つぎの三ヶ条を示しました。
 
 一、国家(この場合は米沢藩のこと)は、先祖から子孫に
   伝えられるもので、決して私すべきものではないこと
 
 一、人民は国家に属するもので、決して私してはならないこと
 
 一、国家人民のために立ちたる君(藩主)であって、
   君のために人民があるのではないこと
 
世間が『伝国の辞』と呼んだこの三ヶ条は、米沢藩主が交代するたびに引き継がれたといわれます。およそ 200年前、世界的にもまだ近代民主主義が発達していたわけでもなかった徳川幕藩体制下の時代に、鷹山は、民主主義的な考え方を表明していたわけです。
 
1961年に、第35代米国大統領に就任したジョン・F・ケネディは、日本人記者団から『あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか?』と質問され、上杉鷹山と答えたというのは有名な逸話とされています。下記の旅行記があります。
 
旅行記 ・米沢を訪ねて − 山形県米沢市 2010.03.27  
  
【参考図書およびサイト】
[1]童門冬二・著『小説上杉鷹山』(集英社文庫/平成8年12月
 第一刷発行)
[2]藤沢周平・著『漆の実のみのる国』(上)・(下)(文春文庫
 /2000年2月)
[3]フリー百科事典ウィキペディア
[4]上杉の城下町米沢観光情報から米沢市の概要
          

2010.04.28  
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