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宇土〜松合の風景 − 熊本県
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天草の苛政とキリシタン弾圧の悲劇は、関ヶ原の戦いの後、支配がキリシタン大名の小西行長(ゆきなが)から、肥前唐津藩(現在の佐賀県唐津市)の寺沢広高に移ったことが、そもそもの始まりだといわれます。行長は、九州征伐と肥後国人一揆の討伐に功をあげ、秀吉より肥後の国の半分24万石を与えられ、宇土城を築城し居城しました。宇土市内にはまた、天草四郎が家族と住んだといわれるゆかりの地があります。島原の乱の激戦地となった天草の史跡を訪ねた余韻がまだ覚めやらないなかで、宇土市と土蔵白壁の家が連なる宇土郡不知火町松合(まつあい)を訪ねました。                    (旅した日 2007年03月)

船場橋
船場橋は、宇土市内の浜戸川の支流、船場川に架かる石造の単一アーチ橋(延長13.7m、幅4.1m)で、江戸時代末期に造られた橋です。石材には地元で馬門石(まかどいし)と呼ばれるピンク色の阿蘇溶結凝灰岩を使用しています。
船場橋付近は、小西行長が船着場として開き、江戸時代、川のほとりには宇土細川藩の蔵屋敷が整備されました。今も武家屋敷跡や井戸などが残っていて、江戸時代当時の名残りをとどめています。
天草四郎ゆかりの里
天草四郎と家族が住んでいたという宇土市旭町江部は、宇土市街のはずれにありました。住宅地の横には広い田んぼが残っていてのどかな雰囲気がありました。写真に見える山並みの向こうが島原、天草です。
       天草四郎ゆかりの里

寛永14年(1637)に起こった
天草・島原の乱の首領となった天草四郎時貞ゆかりの地であり、この付近(宇土市旭町江部)に住んでいたと伝えられる。曹洞禅宗の如来寺(現、宇土市岩古曽町)で学び、長崎へは頻繁に行き来していたもようである。

天草・島原の乱は、キリシタン弾圧と厳しい年貢の取り立てに対して起こったものであり、天草・島原の農民約37,000人が幕府側10万余人に対して果敢に戦ったもので、原城の攻防は90日間に及んだ。

天草四郎は、キリシタン大名小西行長の遺臣であった益田甚兵衛の子で、元は益田四郎時貞といい、洗礼名はジェロニモ、後にフランシスコと改めた。首領となったのは16才の時であり、
江部に住んでいた四郎の母、姉妹は捕らえられ、原城に立て籠もっていた一揆軍に対して、降伏を促すための人質になった。

   平成二年六月一日 宇土市教育委員会
田んぼ沿いの道路から住宅地へ入ったすぐのところに中華料理店があって、その隣りの空き地に市指定文化財『天草四郎ゆかりの里』の標識(写真上)が建ててありました。
小西行長
弘治元年(1555年)、堺の薬種商・小西隆佐の次男として京都に生まれる。父の影響を受けて早くにキリシタンになった。洗礼名はアウグスティヌス。

はじめ宇喜多直家に仕えるが、直家の死後、
秀吉の家臣として仕え舟奉行に任命される。天正15年(1587年)の九州征伐と翌年の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後の国の半分24万石を与えられ、宇土城を築城し居城とした(同年に、あとの半分25万石を与えられた加藤清正は熊本城を居城とした)。

文禄元年(1592年)からの文禄の役では先鋒部隊として加藤清正、黒田長政とともに朝鮮へ進攻し軍功をあげたが、戦況が不利になると、石田三成と共に明との講和交渉に携わり、明側の講和担当者らと共謀し、
秀吉が明に降伏したことにしたと偽って講和を結ぼうとする。この結果、明の使者が書と金印を携えて来日することになった。

そこで、この書を秀吉に報告する段階で行長は適当に内容をごまかして読み上げるよう西笑承兌(さいしょうじょうたい、臨済宗の僧で秀吉の政治顧問)に依頼する。
宇土城跡の石垣と案内板(写真下) 宇土城跡の公園に建つ小西行長像(写真上)

しかし、承兌は書の内容を正しく読んで秀吉に伝えた。このため講和は破綻。行長は秀吉の強い怒りを買い、その不忠義の埋め合わせとして、慶長2年(1597年)からの慶長の役では加藤清正と共に先鋒を命じられ、再び朝鮮へ進攻することになる。

このとき、加藤清正と作戦をめぐって対立するなど、後に武断派との対立の一因を成した。
武断派との路線対立から石田三成ら文治派に与し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成に呼応し西軍の将として参戦する。

関ヶ原本戦では、東軍の部隊と交戦して奮戦するが、
小早川秀秋らの裏切りで小西軍も壊滅し伊吹山中に敗走。山中で里人に身分を明かし、領主の竹中重門に捕われ、同年10月1日、六条河原において三成、安国寺恵瓊らと共に斬首され、首は三条大橋に晒された。自刃しなかったのは、キリシタン信者だったからだと言われている。

その後、領地は加藤清正に与えられ、加藤清正は宇土城を大改修し完成させたが、一国一城令に基づき、慶長17年(1612年)に廃城となる。
宇土高校横の標高39mの城山公園が城跡で、現在は本丸周辺の石垣・土塁・堀跡が残る。石垣は加藤清正修築時のもので、地面の下には地上の石垣と同じくらいの高さの石垣が埋まっているといわれています。
松合の風景
土蔵白壁の家が連なる『松合(まつあい)』(宇土郡不知火町松合)は、九州本土から天草諸島へ向けて伸びる宇土半島の南岸にあります。左右後方の三方を山に、前面を海に囲まれた狭い土地に家々が密集していたため、江戸期以来幾度となく大火に襲われました。
土蔵白壁だけが燃えずに残ったことから、漆喰に塗り回して耐火構造とした土蔵白壁建築が徐々に増えはじめ、現在の景観が形成されたのだそうです。
前面に広がる穏やかな八代海は好漁場となっていて、熊本藩時代の安政期(19世紀中盤)には天草方面からの魚も陸揚げされ、藩内一の漁港として賑わいを見せました。
また、漁港としての潤いを背景に酒や焼酎、醤油、酢などの醸造業が栄えました。松合(まつあい)の由来は、古くから船がかりの津として、潮待ち、舟待ちの地であったことに由来するそうです。

 天草、殉教の地を訪ねて
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