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旅行記 ・寺山炭窯跡 − 鹿児島市 2015.09
寺山炭窯跡
明治日本の産業革命遺産(世界遺産)
寺山炭窯跡
島津家28代当主・島津斉彬公が1850年代に設けた炭窯の跡です。2015年7月5日に『明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域』として、鹿児島市からは『旧集成館』『関吉の疎水溝』とともに世界文化遺産に登録されました。斉彬公は鹿児島市吉野町磯に、全国に先駆けて日本最初の洋式産業群をおこしました。いわゆる集成館事業です。
窯口
大砲や砲弾の製造、あるいはガラスの製造の原料となる鉄やガラスの溶融には1500℃に達する高温が必要になりました。石炭を産しない薩摩藩では、古来より火力を木炭に頼っていました。南九州にはシイノキ、カシノキをはじめ、木炭の原料となる堅い雑木が群生しており、寺山もまた豊富な森林資源に恵まれていました。
 
後方斜め上より見る
しかし、従来の比較的低温で炭焼されてつくられていた黒炭では、精錬時の温度がせいぜい900℃までしかあがりません。そこで、家臣・山本藤助を紀州(現在の和歌山県)に派遣し、精錬時の温度が1300℃まで上る白炭の製炭法を学ばせた後、寺山に3基の大釜を設け白炭の生産を行いました。これはそのうちの1基の窯跡です。
操業時想像復元図(現地案内板を撮影)
巨大な炭窯の壁面や窯口は厚い凝灰岩(火山から噴出された火山灰が堆積してできた岩石)の切石を円弧状に積み上げて造られています。高温に耐え、上部の土のドームを支えるために、頑強な構造であったと思われます。凹面のドームで火力を反射させて輻射熱で鉄を溶かす反射炉を建設し、燃料には寺山で生産された白炭を使って、1500℃の精錬温度を達成しました。
『炭竈乃記』
炭窯の前の『炭竈乃記』(すみかまどのき)は、斉彬公逝去5ヶ月前の安政5年(1858年)2月に建立されたもので、その文章と文字は薩摩藩士で歌人の八田知紀の作です。八田知紀は、京都の藩邸に仕え、和歌を学びました。維新後は宮内省歌道御用掛として活躍。多くの和歌と門下生を生みました。石碑には斉彬公の尽力や、窯の築造状況、繁栄への祈りが記されています。
閑静な雑木林の中にあります
   集成館の史跡と仙巌園
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