♪田原坂
日本民謡の世界
田原坂を訪ねて− 熊本県植木町
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田原坂は長さ1.5km、標高差60mのゆるやかな坂。南下して熊本城を目指す官軍小倉連隊とこれを阻止せんとする薩軍が、明治10年(1877年)3月4日から17昼夜、一進一退の攻防を繰り返し1万人余の戦死者を出した、西南の役最大の激戦地です。雨は降る降る、人馬は濡れる・・・、雨が降りしきる同月20日、官軍は総攻撃をかけ田原坂はついに陥落。薩軍は、熊本城の包囲を解き、その後九州山地を敗走して鹿児島に戻ります。西郷隆盛以下薩軍幹部が、鹿児島・城山の岩崎谷で自決したのは田原坂から半年後の9月24日のことでした。ちょうど西南の役・田原坂130周年の3月4日に田原坂を訪れました。(旅した日 2007年03月)

                                            植木町史跡マップ
  
  
田原坂
田原坂公園から眺める田原坂・三の坂
田原坂公園
北西から南東に向って、一の坂、二の坂、三の坂となだらかに上がる田原坂。三の坂を登りきった頂上部には楠の大木が茂っています。付近は田原坂公園として公園化され、戦死者の慰霊塔や征討総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王の崇烈碑、田原坂資料館、弾痕の家などがあります。田原坂公園の大楠は戦闘の帰趨を決した田原坂激戦の生き証人です(写真下)。
西南の役の最大の古戦場であるこの付近は、3月4日から17昼夜に及ぶ激戦地で、当時は昼尚暗き森林の中の主要道路で、大砲や弾薬を運ぶにはほかに道はなく、麓から頂上に達する落差60mの切通した田原坂(一の坂、二の坂、三の坂)には、官軍、薩軍双方がとりでを築き、一進一退の大攻防戦が展開された。結果は薩軍が敗退したが、この間7日間はみぞれまじりの雨また雨の連続であったと伝えられる。(環境庁・熊本県の案内板より
  
                     熊本民謡 田原坂
  
               雨は降る降る 人馬(じんば)は濡れる
               越すに越されぬ 田原坂
               右手(めて)に血刀(ちがたな) 左手(ゆんで)に手綱(たづな)
               馬上ゆたかな 美少年
 
幼少の頃から西郷隆盛に指導を受け、城山での死の瞬間まで西郷に付き添い、深く尊敬し続けた村田新八は享年42歳でした。その長男・村田岩熊も享年19歳という若さで戦死しました。彼もまた米国留学帰りの前途有望な若者でした。民謡・田原坂に歌われる”馬上ゆたかな美少年”のモデルではないかと言われています。
現在の一の坂
明治10年(1877年)当時の田原坂(北西からの遠望)
麓の豊岡眼鏡橋からの標高差はわずか80mの田原坂。一の坂、二の坂、三の坂と頂まで1.5kmの曲がりくねった道が続く。この道だけが唯一大砲をひいて通れる道路幅(3〜4m)であり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本まで進めなかった。官軍にとっては生死を制する道であり、ともに戦略上の重要地であり、この平凡な坂道が激戦の舞台となった。(現地案内板より
   
田原坂を訪れたのは、田原坂で激戦が始まった記念日の3月4日でした。『歓迎・西南の役田原坂130周年』という横断幕が掲げられ、健康マラソン大会が開催されていました。
無数の砲弾が飛び交い、多くの血が流れ、130年前間違いなく修羅場と化した地は、いま町民の憩いの場となっています。田原坂のお土産はやはり、『西郷せんべい』なのでしょうか、赤地に白字のノボリがありました(写真上)。
弾痕の家
西南の役当時、田原坂の頂上(植木町大字豊岡字休居二二四四番地)にあった松下彦次郎家の土蔵が、両軍の銃弾で無数の疵を受けました。田原坂の戦い直後に、長崎の写真師上野彦馬氏撮影の写真と、明治十三年頃に、熊本の写真師富重利平氏撮影の写真が残されています。植木町では昭和63年(1988年)に、富重氏の写真を参考にして、土蔵を復元しました。現地案内板より
田原坂資料館
田原坂の戦闘で消耗した小銃の弾薬は一日平均32万発にものぼったといわれます。田原坂資料館には、当時使用された銃器類や戦況を伝える電文・錦絵、弾と弾が空中で衝突した「空中かちあい弾」、大砲模型、西南の役当時の写真・資料など250点余りが展示されています。
資料館内部で撮影が許されているのは、薩軍兵士(写真上)と官軍兵士(写真下)の姿を再現した人形だけです。連日、雨また雨の戦いの中で、軍服、靴を備えた官軍兵士(写真下)に対して、木綿のかすりとわらじ姿の薩軍兵士(写真上)は、次第に体力を消耗していきました。

官軍兵士の姿。写真左より、警視庁抜刀隊、鎮台歩兵、近衛歩兵。抜刀隊は、田原坂の戦いの際に、官軍方で警視隊の中から選抜して臨時に編成された決死隊のことです。

西南の役戦没者慰霊之碑
この慰霊碑は、明治10年(1877年)の西南の役で戦死された官軍6,923名、薩軍7,186名、殉難者29名の御霊の安らかならんことを願って建立したものです。
西南の役は、明治維新における新政府の施策をめぐって相反した意見の対立が膨らみ、ついに国内史上最大最後の内乱、西南戦争勃発に至ったのであります。国内の安寧(あんねい)と民族の発展を希求して止まなかった前途有為な青年たちが、立場こそ官薩両軍に別れて熾烈な戦いを行いましたが、国を憂う志士たちの熱膓は異なるところはなく、骨肉相喰む悲劇という外はありません。
植木町では、ここ激戦の地、田原坂に全戦没者の御霊を慰霊し崇高な精神文化の遺産を継承し、町づくりの象徴とするため、碑の建立を行い、先人と共に顕彰に努めております。
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以上、現地案内板より
                          
七本(ななもと)柿木台場薩軍墓地
明治10年3月初旬から 4月中旬まで続いた田原坂周辺の戦いで、木留・七本原付近で戦死した薩軍や熊本隊の兵士329名が埋葬されています。地域的に見て官軍が田原坂の攻略に成功 した時期の死者とみられる。ここが3月20日、官軍の総攻撃によって田原坂陥落のきっかけとなった陣地でした。 (参考/植木町ホームページ
七本官軍墓地
西南戦争で戦死した政府軍人・軍夫・ 警視隊を埋葬した官軍墓地は熊本県内に21ヵ所つくられているそうです。この七本官軍墓地には、植木や吉次・木留、辺田野・平野・滴水などで戦死した各鎮台および近衛兵300余名が埋葬されています。 大きな二本の木の下に実際の死体は埋められたと伝えられています。(参考/植木町ホームページ
西南の役と日本赤十字社
熊本県指定重要文化財 洋学校教師館(ジェーンズ邸)
明治4年(1871年)から明治9年まで、熊本城跡の古城(現、第一高校)に開設された熊本洋学校に招かれたアメリカ人教師ジェーンズが居住していたので、ジェーンズ邸ともいわれている。この建物は、長崎から招かれた大工によって建てられたコロニア風木造二階建てで、ベランダの天井には菱組みが用いられ、柱頭にはブドウの図柄が刻まれており、熊本県内で現存する洋風建築としてはもっとも古い。
明治10年(1877年)、西南の役のとき、征討総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王の宿舎となったが、佐野常民(さのつねたみ)らが出した博愛社(後の日本赤十字社)創設願が許可されたので、日本赤十字社の記念建造物となった。その後、南千反畑町、水道町と移築され、日本赤十字熊本県支部となっていたが、日本赤十字熊本支部の長嶺町移転に伴い、熊本市が譲り受け、昭和45年(1970年)、現在地(水前寺公園隣り)に移築復元したものである。
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編集後記
■政変で下野した西郷隆盛は、森閑とした山で鉄砲を撃ったあとの浮き上がる静寂を好んでよく狩りに出かけたと言われます。明治10年(1877年) 1月29日、大隅半島の根占(ねじめ)で木賃宿を定宿にして狩りに出ていた西郷は、鹿児島城下の私学校生が城下の弾薬庫を襲撃したという知らせを受けます。西南の役の火ぶたとなりました。『ちょしもた!』(しまった!)と一瞬怖い顔で深いため息をつき、鹿児島に向かったと言われます(南日本新聞より)。■西郷隆盛の先祖は、田原坂からほど遠くない熊本県菊池郡の出で、元禄年間に肥後から島津家の臣となったそうです。西郷自身も奄美大島に流された時、菊池源吾と名乗っていましたし、二人の子供の名前に菊の一字を与えています。熊本とはそういう因縁もあった西郷南洲翁でありました。
   
 レポート ・田原坂と日本赤十字社
  
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