レポート | ・田原坂と日本赤十字社 |
− 田原坂と日本赤十字社 −
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田原坂は長さ 1.5km、標高差60mのゆるやかな坂。南下して熊本城を目指す官軍小倉連隊とこれを阻止せんとする薩軍が、明治10年(1877年)3月4日から17昼夜、一進一退の攻防を繰り返した、西南の役最大の激戦地となりました。 医療活動や献血などで身近な存在である日本赤十字社の前身・博愛社が、実は西南の役のさなか、熊本のこの地で誕生したことを知る人は少ないかも知れません。 *** 3月から4月にかけての田原坂の戦いと熊本城の攻防はし烈をきわめ、一日平均 1,800人の負傷者が出たといわれますが、負傷者に対する救護活動は満足な状況ではありませんでした。 西南の役の悲惨な状況を知り、負傷者に対し救護活動を行なう団体の創設を決心し立ち上がった人物がいました。九州佐賀藩士の家に生まれ、当時元老院議官となっていた佐野常民(さのつねたみ、1822〜1902年)です。 佐野は、慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会、明治6年(1872年)のウィーン博覧会に出席し、ヨーロッパにおける赤十字活動に深く感銘を受け、日本でも将来、このような救護団体が必要になるであろうと痛感していたのです。 佐野は、元老院議官・大給恒(おぎゅうわたる、長野県生れ、1839〜1910年)と相談して、趣旨に賛同した発起人によって救護団体『博愛社』の規則を定め、政府に対し設立願いを出ました。 しかし、太政官からは設立許可が得られませんでした。規則の第4条にある『敵人ノ傷者ト雖モ救ヒ得ヘキ者ハ之ヲ収無減シ』つまり『敵味方の差別なく救護する』という考え方が、当時の政府には受け入れられなかったのです。 そこで博愛社の設立を急ぐ佐野は、官軍の司令官(征討総督)として熊本に派遣されていた有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王に直接趣意書を差し出すことを決意し、熊本城内にあった総督本営(旧ジェーンズ邸)に願い出ました。 征討総督の宮は、英断を持ってこの博愛社の活動を許可されました。ときに明治10年5月1日のことでした。5月3日、許可を得た佐野・大給両議官は直ちに田原坂に向かい、すぐ近くの木葉(現玉名郡玉東町)の正念寺に救護所を開き、敵味方の区別なく負傷兵を収容し手当を行いました。これが日本における赤十字運動の起こりでした。 *** 西南の役が終わると博愛社の存廃が問題となりましたが、いざという場合に迅速機敏な救護活動を行うには、普段からの用意が必要であるという意見が強く、小松宮彰仁親王を初代総長に、佐野、大給両人を副総長に推して、博愛社を恒久永劫の救護団体とすることになりました。 その後、明治19年(1886年)に、日本政府がジュネーブ条約に加盟すると、翌20年に博愛社は社名を日本赤十字社に改称し、赤十字国際委員会の承認を得て、正式に国際赤十字の一員に加わりました。 【参考】 ・熊本赤十字病院:赤十字の誕生 ・日本赤十字社秋田県支部ホームページ = 補 遺 = 1859年、アンリー・デュナンという一人のスイスの青年が、イタリア統一戦争の激戦地ソリフェリーノにほど近いカスティリオーネという町にさしかかり、町の人々や旅人たちと協力して、傷病兵の救護に当たりました。青年は、『傷ついた兵士は、もはや兵士ではない、人間である。人間同士としてその尊い命は救わなければならない』との信念に燃え、国際的な救護団体の創設を訴えます。赤十字の始まりでした。 日本赤十字社は、国の機関ではなく法律に基づいて設置された『民間の団体』(特殊法人)で、日本赤十字社は社員をもって組織すると定められています。我が家でも年額 500円の社資を納め、玄関に『日本赤十字社員章』の表札が掛けてあります。 日本赤十字社には、皇室の保護のもとに誕生し、育ち、活躍しているという、世界の赤十字の中でも他に例をみない特徴があります。現在の定款には『皇后陛下を名誉総裁にする』ことなどが明示されています。日本赤十字社の歴史を知ればうなづけます。 下記に旅行記があります。 ■田原坂を訪ねて − 熊本県植木町 |
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2007.03.21 | ||||
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