♪Life Goes On
Blue Piano Man
荘川桜 − 岐阜県高山市荘川町
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はじめての土地を旅すると予期せぬ風景や情景に出会い、思わぬ感動をすることがあります。この二本の老桜(おいざくら)もそうでした。レンタカーで庄川沿いに国道156号を北上します。お目当ては世界遺産の合掌造りの集落・白川郷です。御母衣(みぼろ)ダムが近づくにつれて川幅はだんだん広くなり、離合ままならない狭幅の隧道をいくつもくぐります。ゆるい左カーブを登りきった前面に突如、とてつもなく大きな二本の桜の木が現れました。若葉が出てきてはいますが、まだ花をしっかり付けていて、フロントガラスの空全面を鈍い薄桜色に染めます。白川郷から五箇山にまわった帰り道の夕方、写真を撮りました。その壮大さゆえの感動もさることながら、ダム建設で湖底に沈む運命にあった老桜が、植林史上例のない大がかりな難事業によって移植されたという物語を知って、また感動したのでした。           (旅した日 2006年05月)
   
        おいざくら
二本の老桜
撮影 2006.05.14.16:45
荘川桜物語
  
故 高碕達之助翁と荘川桜
  
かつて高碕翁が
光輪寺に老桜を訪れたとき、
慈愛にみちた口調で語った言葉は、
その時翁に従っていた者に
いつまでも深い感動を与えた。

  
  進歩の名のもとに、
  古き姿は次第に失われてゆく。
  だが、人の力で救えるものは、
  なんとかして残してゆきたい。
  古きものは
  古きがゆえに尊いのである。
 
  
平成14年10月 荘川村商工会青年部
昭和34年(1959年)の晩秋、『御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会』の解散式のあった日、ダム事業者である電源開発(株)の初代総裁として交渉に臨んできた高碕達之助は、水没予定地を感慨深げに見てまわり、光輪寺の老桜を移植することを思い立ちます。桜研究家・笹部新太郎の協力を得て、照蓮寺にある老桜と共に、二本同時に移植することになり、昭和35年(1960年)秋、重量合わせて 73トン、移動距離 600メートル、高低差50メートルという、世界植樹史上例のない移植工事が行なわれました。移植はされましたが、丸裸になってしまった老桜を見た水没地住民や世間の、笹部や高碕に対する目は「むごい」と冷たいものでした。しかし、翌年の春、若い芽を出し、見事に活着したのでした。移植後45年を経た今も、御母衣湖畔に二本寄り添い助け合ようにして、壮大な姿を見せ続けています。 More ⇒
撮影 2006.05.14.16:45 データ/東彼岸桜(アズマヒガンザクラ)、樹高:約20m、 幹周り:約6m、樹齢:450余年
     
【備考】 電源開発(株)の下記のページが参考になります。
     ■荘川桜 | J-POWER 電源開発株式会社
 
【お便り紹介】
このページをご覧頂き、横浜市在住の井上二士夫さんから、つぎのお便りを頂きました。
小生、富山在住の時、『荘川桜』へ行きました。小生の記憶では、高碕達之助氏が、ダム建設の為、水底へ沈む運命の『荘川桜』を、故郷を失う村人の悲しみを察し、村の鎮守様にあった『老い桜』を多大な費用をかけ、移転したとの話(記述)があり、また、高碕達之助氏が短歌を一首、詠まれていました。私の記憶を辿ってみますと、次ぎの短歌であったと思います。
 
  
ふるさとは 水底となり 移し来し この老い桜 咲けとこしえに  高碕達之助
 
この短歌で高碕氏の人柄が偲ばれ、また、村人は村を離れた後も、この『老い桜』を訪れた時、この桜で村人が幼い頃から親しんだ鎮守様を偲んでいたと聞きました。それと、余談ですが、この村の元住人の多数は、東京渋谷の道玄坂付近に住むことになったとも聞いた記憶があります。(2012.07.31)
 
井上さん、ありがとうございました。
 
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