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せきよしのそすいこう 関吉の疎水溝 明治日本の産業革命遺産(世界遺産) |
現在は農業用水路に使われている疎水溝 |
2015年7月5日に『明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域』として、鹿児島市からは『旧集成館』『寺山炭窯跡』とともに世界文化遺産に登録された『関吉の疎水溝』は、鹿児島県鹿児島市下田町にある疎水(利水のためにつくった用水路)であり、磯の集成館工場群に動力用の水を運んだ約7kmに及ぶ『吉野疎水』の取水口(しゅすいこう)部にあたります。 |
疎水溝の出発点(左手への流れ) |
吉野疎水が築かれたのは1691年(元禄4年)で、当時は水田灌漑用でした。1700年代になると、磯の別邸に生活用水を供給するようになります。そして、1852年(嘉永5年)、島津斉彬が再整備し、新たな水路を設けて集成館の工業用水として利用を始めました。1913年(大正2年)、決壊により取水口が少し上流の現在位置に移されました。 |
取水堰を築くための溝の跡 |
取水は、稲荷川の上流の渓谷で堰(せき)によって水をせき止める仕組みで、堰を築くために岩盤に刻まれた縦長の溝が残されています(写真上・下)。かつてはその縦長の溝のすぐ左手に取水口がありました。河床にも石工のノミ跡が残されており、路盤工を施したことが偲ばれます。 |
取水堰位置(上流より見る) |
ここで取水した水を約7kmにわたって運ぶ疎水溝を、高低差の少ない吉野台地上につくるには、水路を一定の傾斜で築く必要があり、きわめて高い技術が要求されました。こうした困難を克服して疎水を引き、疎水の端部にあたる磯の裏山に貯水池を設けて水路・懸樋(かけひ)で落とされて、運ばれてきたた水が工場群の動力や用水に利用されました。 |
合成写真による取水堰想像図(現地説明板を撮影) |
吉野疎水は、17あるいは18ケ所で隧道(トンネル)が掘削されていたようです。疎水溝は、昭和46年(1971年)頃の大明丘団地造成によって埋められ、現在は実方橋の手前で途絶え、約3kmが現存するのみです。現在は、かつての取水口の少し上流から取水して(写真下)、現存する約3kmの疎水溝が農業用水路として使われています。 |
取水堰位置より上流を見る(右手は現在の疎水の流れ) | |||
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