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旅行記 ・関吉の疎水溝 − 鹿児島市 2015.09
せきよしのそすいこう
関吉の疎水溝
明治日本の産業革命遺産(世界遺産)
現在は農業用水路に使われている疎水溝
2015年7月5日に『明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域』として、鹿児島市からは『旧集成館』『寺山炭窯跡』とともに世界文化遺産に登録された『関吉の疎水溝』は、鹿児島県鹿児島市下田町にある疎水(利水のためにつくった用水路)であり、磯の集成館工場群に動力用の水を運んだ約7kmに及ぶ『吉野疎水』の取水口(しゅすいこう)部にあたります。
疎水溝の出発点(左手への流れ)
吉野疎水が築かれたのは1691年(元禄4年)で、当時は水田灌漑用でした。1700年代になると、磯の別邸に生活用水を供給するようになります。そして、1852年(嘉永5年)、島津斉彬が再整備し、新たな水路を設けて集成館の工業用水として利用を始めました。1913年(大正2年)、決壊により取水口が少し上流の現在位置に移されました。
 
取水堰を築くための溝の跡
取水は、稲荷川の上流の渓谷で堰(せき)によって水をせき止める仕組みで、堰を築くために岩盤に刻まれた縦長の溝が残されています(写真上・下)。かつてはその縦長の溝のすぐ左手に取水口がありました。河床にも石工のノミ跡が残されており、路盤工を施したことが偲ばれます。
取水堰位置(上流より見る)
ここで取水した水を約7kmにわたって運ぶ疎水溝を、高低差の少ない吉野台地上につくるには、水路を一定の傾斜で築く必要があり、きわめて高い技術が要求されました。こうした困難を克服して疎水を引き、疎水の端部にあたる磯の裏山に貯水池を設けて水路・懸樋(かけひ)で落とされて、運ばれてきたた水が工場群の動力や用水に利用されました。
合成写真による取水堰想像図(現地説明板を撮影)
吉野疎水は、17あるいは18ケ所で隧道(トンネル)が掘削されていたようです。疎水溝は、昭和46年(1971年)頃の大明丘団地造成によって埋められ、現在は実方橋の手前で途絶え、約3kmが現存するのみです。現在は、かつての取水口の少し上流から取水して(写真下)、現存する約3kmの疎水溝が農業用水路として使われています。
取水堰位置より上流を見る(右手は現在の疎水の流れ)
  集成館事業 幕末期、薩摩藩は欧米列強のアジア進出に対して危機感を抱き、いち早く対応しようと試みました。とりわけ島津家28代当主・島津斉彬は産業や軍備の近代化が急務だと考えて、富国強兵と殖産興業を唱えました。集成館事業は、その具体策として計画され、製鉄やガラス、陶器、薬品、織物などの製造をはじめ、艦船の建造、大砲などの武器製造や蒸気機関、電信、写真などの技術開発に至るまで幅広く研究、製造を試みました。これらの研究、生産設備群は1850年(嘉永3年)代初頭から1860年(万延元年)年代という極めて短い期間に整備、構築されました。集成館事業はまさしくわが国における産業革命のさきがけでした。
 
関吉の疎水溝
 蒸気機関が本格的に導入されるまで、集成館の工場群で使用された大型動力は水車によるものでした。しかし、集成館のある磯地区には大きな河川がなく、鹿児島特有のシラス台地である吉野台地から水を勢いよく落とし、動力を活用することを計画し、元来、磯の別邸・仙巌園に用水を供給するために築かれていた吉野疎水を再整備し、1852年(嘉永5年)に新たな水路を築いて集成館の水車に安定した水を供給しようとしました。稲荷川の上流の関吉では凝灰岩(ぎょうかいがん)の渓谷によって一旦、川幅が狭くなります。ここで水をせき止め一定量を取水し、疎水に送り込んでいます。疎水溝の一部は現在も灌漑用水として利用されています。
   集山炭窯跡   ⇒ 集成館の史跡と仙巌園
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