『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜』
          ゆかりの地を訪ねて(3)
♪トロイメライ(夢)  
 
うっちいの音楽箱!  
賤ヶ岳 − 滋賀県長浜市
天正10年(1582年)、織田信長が本能寺の変によって殺害されると、柴田勝家と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の二つの勢力が後継をめぐって対立します。この二つの勢力は翌年の天正11年(1583年)春、賤ヶ岳(しずがたけ)附近で衝突し激しい戦いとなりました。いわゆる賤ヶ岳の戦いです。この戦いは、勝利した秀吉が織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけることになった戦いでした。勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却し、翌日夫人のお市の方と共に北ノ庄城内で自害して果てました。お市の方が茶々、初、江(ごう)の3人の娘をつれて勝家と再婚してわずか10ヶ月後のことでした。賤ヶ岳の戦いゆかりの賤ヶ岳に登りました。                       (旅した日 2010年12月)
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 しずがたけ
賤ヶ岳
賤ヶ岳登山口に設置された『戦国ロマン 賤ヶ岳古戦場』の説明板
 賤嶽の七人槍  
春は去りぬ。越路の雪も解始めたれば柴田勝家、先づ佐久間盛政をして一万五千の兵を率い、近江の柳瀬に討って出でしむ。待ちまうけたる秀吉は、琵琶湖のほとりに十三箇所のとりでを構へ、諸将を配置して防備をさをさ怠なしやがて勝家また自ら五萬の兵を督し来りて盛政の軍に合す。(中略)秀吉はるかに之を望み旗本の若武者どもをきっと見て、『でがらは仕勝ちぞ かゝれかゝれ』ろ大音声。『承る』と、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐目元等の荒武者ども勇みに勇んで突進す。(中略)福島正則以下の六人、またそれぞれに名のある勇士を討取って、武名を天下にとどろかせり、武器は皆槍なりしかば、世に之を称して賤嶽の七人槍という。
尋常諸学 国語読本 第十一より 
 
リスト運行は11月末まで。運休が恨めしかったです。
登山口近所の民家の人にたずねてみると、山頂まで1.5kmで40分近くかかるということです。スケジュールは狂うし、かなりきつい思いをすることになりますが、鹿児島からここまで約1,000kmの道程を来ていてあと1.5kmを残すというわけにいかず、覚悟を決めて登り始めた次第でした。リフトを使えば山頂まで約6分、料金は往復で760円ということですので、リストの運休が恨めしいことしきりでしたが、ところどころに古戦場にまつわる案内杭などがあって賤ヶ岳の雰囲気を味わえたことでした。
  賤ヶ岳登山
標高421m、標高差280mの賤ヶ岳は、古戦場ゆかりの山というだけなく、山頂からは南西に奥琵琶湖と比良山系、竹生島など、東に伊吹山、北に余呉湖が一望できる奥琵琶湖随一の景勝地となっていて、登山者が多く、近江鉄道(株)が登山リフトを運行しています。リフトを利用するつもりでスケジュールを立てて登山口にきてみると運行は11月末日までで、冬の期間は休業ということでした(2011年は3月18日から再開)。
300m登ったところ。あと1.2kmあります。
はぁはぁ言いながら林の登山道を登りきると、山頂まであと300mというところに、リフトの巻き揚げ装置がありました(写真上)。賤ヶ岳登山のハイキングコースには、北側の余呉湖から登って、柴田勝家側の佐久間盛政の奇襲にあった中川清秀主従の墓や首洗いの池などを通るコースや南側の山本山から登るコースなどがあるそうです。
左手に見える琵琶湖
ここから300m歩けば、賤ヶ岳山頂
 戦歿者供養堂
当初賤ヶ岳合戦の死傷者の霊を弔う石仏が野山に点在していたのを麓の里人たちが一箇所に集めて供養を続けて来ていたところを、昭和57年(1982年)賤ヶ岳合戦四百年を機に景勝のこの地に移転して毎年4月の当岳の山開き祭に里の行事として年一度の供養をしているという旨の由来を書いた『戦歿者供養堂』(写真右・下)の説明板があります。
  賤ヶ岳合戦と琵琶湖
柴田勝家方の佐久間盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた頃、時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていたのが丹羽長秀でした。『一度坂本に戻るべし』という部下の反対にあったものの、機は今を置いて他に無いと判断した長秀は、進路を変更して海津への上陸を敢行し、これによって戦局が一変することになります。
『賤ヶ嶽合戦々歿者霊地』とあります(写真上)
頂上の手前にある『戦歿者供養堂』(写真上)
やっと賤ヶ岳山頂到着
山頂の広場には、史跡・賤ヶ嶽の石碑や賤ケ岳合戦の概要と合戦図を示す案内板が建てられており、賤ヶ岳合戦四百年を記念して制作された『武者の像』が置かれていました。北の方を望むと、すぐ眼下が賤ケ岳の中腹から余呉湖にかけて賤ケ岳合戦の主戦場となったところです。
  賤ヶ岳山頂
予想通り40分近くを要して山頂に着くと、山頂は公園のように平坦な広場になっていて、いくつかのハイキンググループがお弁当を広げて談笑していました。盗み聞きしてみると『龍馬伝』の福山雅治は格好良かったとか、話題はやはりNHK大河ドラマのことのようです。
山頂では弁当を広げて談笑する人たちが
『武者の像』(地元出身の彫刻家・須川常美氏の作、『戦のあと』という制作意図説明碑が添えられています)
賤ヶ岳合戦図
無事でよかった。と、しみじみ思うのもこんな時だろう。そして、それと裏腹に、絶える事のない戦に次々と赴かねばならぬ己の宿命に粛然と気づくのも、このような時ではなかろうか。ひとかどの武将が、ただ手放しで勝利に酔っていたとは、とても私には考えられない。戦というものは、勝敗を超えた次元で厳しくそして哀しい。古戦場に来て、戦のあとの武将の仕草や心の動きを追想してゆくほどに、勇ましかるべき勝者の像は、次第に変貌し、頭を垂れた恰好に定着してしまった。戦勝400年記念には相応しくない形かも知れないが、故郷の山に甘えて創作させて頂いた。昭和五十九年五月 須川常美。
  − 戦のあと −
勝鬨が随所にあがり、勝家勢は北に退散。北陸近畿を結ぶ要点賎ケ岳は再び秀吉のものとなった。対逆襲の配備、死傷者の処置など一応の手配を終わると、さしもの武将も崩れるように腰をおろした。毀れた兜を脱し、槍に身を支える。一帯は嘘のように静まり、四月の風が潅木の上を柔らかく撫で渡ってゆく。鎧の下のおびただしい汗が次第に冷えるのを覚えながら、武将は隈の浮いた目蓋を伏せた。命限りの雄叫び、悲鳴、死の形相。今しがたの悪夢の断片に混って、部下の死のこと、手柄恩賞のこと、妻子のこと、さまざまが武将の脳裡を去来する。
史跡・賤ヶ嶽の石碑
山頂よりを望むと『余呉湖』
賤ヶ岳を隔てて琵琶湖の北にある『余呉湖』(よごこ)は囲約6.4km、水深13mの湖です。『よごのうみ』とも呼ばれ、最古の羽衣伝説の湖として知られています。賤ヶ岳合戦では賤ヶ岳周辺の山野に累々と屍が重なり、武具を洗い流した余呉湖の水は真っ赤に染まったといいます。
 
山頂より南東を望む風景
賤ヶ岳山頂から南東を望み(写真上)、南を望む(写真下)と、小谷山や虎御前山、山本山といったいずれも小谷城合戦ゆかりの山々が見えます。小谷城は浅井氏の居城で、長政が自害。虎御前山はその戦いで信長が砦を築いた山でした。山本山城は小谷城の支城でしたが、阿閉貞征が信長に内応し山本山に織田軍を引き入れたため、小谷城は孤立し主家滅亡の遠因をつくることになりました。 
 
山頂より南を望む風景
        
 レポート ・賤ヶ岳の戦い
      
      
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