レポート  ・賤ヶ岳の戦い   
− 賤ヶ岳の戦い −
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いは、天正11年(1583年)近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家の戦いです。織田勢力を二分する激しい戦いとなり、勝利した秀吉が織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけることになりました。
 
1.戦いに至る経緯
 
天正10年6月、織田信長とその嫡男で当主の織田信忠が本能寺の変で明智光秀によって殺害されると、同月織田氏の後継者を決定する会議が清洲城で開かれ、信長の三男・織田信孝を推した柴田勝家と織田信忠の子である三法師(のちの織田秀信)を推した羽柴秀吉が激しい対立を続けます。
 
同年11月、勝家は前田利家、金森長近、不破勝光を秀吉のもとに派遣し、秀吉との和睦を申し出ます。これは北陸に領地を持つ勝家が、冬は雪で行動が制限されることを考えたうえでのみせかけの和平交渉でした。秀吉はこのことを見抜き、逆にこの際に前田利家らを調略したとも見られています。
 
案の定、同年12月、秀吉は和睦を反故にして大軍を率いて近江に出兵、長浜城を落とし、さらに美濃に進駐し、岐阜城にあった織田信孝を降伏させました。一方で越前の北ノ庄城にあった柴田勝家は雪のため動けずにいましたが、これらの情勢に耐え切れず、ついに翌年の天正11年2月(新暦4月)末、残る雪をかきわけつつ近江に向けて出陣した。
 
2.布陣
 
3月12日(5月3日)、勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣。一方、秀吉も直ちに兵を出し、3月19日(5月10日)には5万の兵力を率いて木之本に布陣。双方とも直ちに攻撃に打って出ず、陣地や砦を構築したりして、戦線は膠着状態にあり秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還しました。
 
3.佐久間盛政の奇襲
 
4月16日(6月6日)、一時秀吉に降伏していた織田信孝が再び挙兵して岐阜城下へ進出したため、秀吉は直ちに美濃に進軍します。しかし、揖斐川の氾濫により大垣城に入りました。秀吉が大垣城に入って留守であることを知った盛政は、中川清秀の砦を急襲する作戦を勝家に提案します。
 
持久戦に持ち込む考えだった勝家は、当初これに反対しましたが、盛政の強い要望があって妥協し、『砦を落としたら速やかにもとの陣に撤収する』という条件で承諾しました。盛政の急襲作戦は見事に成功、盛政は清秀を討ち取り、賤ヶ岳の戦いの緒戦を勝利に導きました。
 
この戦果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下しましたが、再三の命令にもかかわらず盛政は急襲作戦の勝利を足がかりにして戦の勝敗を決しようと軍勢を置き続けます。そして、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦(大岩山砦)の守将、桑山重晴が撤退を開始すると、盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われました。
 
4.秀吉の美濃大返し
 
ちょうどその頃、丹羽長秀が船で琵琶湖を渡っていました。長秀は機は今を置いて他に無いと判断し、『一度坂本に戻るべし』という部下の反対を押し切って、進路を変更して海津へ上陸を敢行しました。そのことで戦局は一変します。長秀の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となりそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し間一髪の所で賤ヶ岳砦の確保に成功しました。
 
これを好機到来とみた秀吉は、美濃国大垣(岐阜県大垣市)から近江国木之本(滋賀県長浜市木之本町)までの13里(約52km)の道のりを5時間でかけぬけるという大掛かりな軍団移動をやってのけます。世に言う美濃の大返しです。時速10.5km(自転車の平均時速に近い)という常識はずれのスピードで駆け抜けたことになります。秀吉は戦況の急報を得ると、即座に健脚の兵を先行させ、木之本までの沿道に松明と食糧を並べるように手配させたのでした。
 
5.激戦と前田利家の戦線離脱
 
14時に大垣を出た秀吉は19時には木之本に到着、野宿していた佐久間盛政は秀吉が木之本に迫っていることを知り驚き、同深夜に撤退を開始しますが、翌日の未明に秀吉は、自ら先頭を駆けて大軍に総攻撃を命令し、薄闇の余呉湖畔で激しい戦闘が始まりました。しかし、盛政の軍が善戦、そのため秀吉は盛政の救援に向かっていた柴田勝政に攻撃対象を変更、この勝政の軍に盛政が逆に救援するという激戦になりました。
  
ところがこの最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如戦線離脱したのです。理由には諸説があるようですが、秀吉とは信長の部下時代からの親友であったことと、勝家とは主従関係にあったことの相関関係に耐えきれなかったことが一番有力な説ではないかと言われているようです(ウィキペディアの『賤ヶ岳の戦い』のページより)。
 
・賤ヶ岳合戦図(賤ヶ岳山頂で撮影)を見る
→ http://washimo-web.jp/Report/shizugataketatakai.jpg   
 
6.勝家の退却と自害
 
このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わり、さらに柴田側の不破勝光、金森長近の軍勢も退却したため、秀吉の軍勢が柴田勝家本隊に殺到、多勢に無勢の状況に耐えきれず勝家の軍勢は総崩れし、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却しました。
 
北ノ庄城に逃げ帰った勝家は、北ノ庄城が秀吉の軍勢に包囲され炎上する中で、夫人のお市の方とともに自害。お市の方が茶々、初、江(ごう)の3人の娘をつれて勝家と再婚してわずか10ヶ月後のことでした。柴田勝家、享年62歳、お市の方37歳。
 
下記の旅行記が参考になります。
旅行記 ・賤ヶ岳 − 滋賀県長浜市
 
【参考にしたサイト】
このレポートは、ウィキペディアの、賤ヶ岳の戦い、佐久間盛政、柴田勝家、美濃大返しのページなどを参考にして書きました。
 

2010.12.28 
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