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旅行記 ・新琴似屯田兵中隊本部 − 北海道札幌市  2012.07
新琴似屯田兵中隊本部
新琴似屯田兵中隊本部
札幌市有形文化財 新琴似屯田兵中隊本部(札幌市北区新琴似8条3丁目) 軍隊の仕組みの一つである中隊は、200〜240名ぐらいで組織されており、普通は一つの屯田兵村が一つの中隊になっていました。この建物は、明治20年九州各地の士族146戸の入植(翌21年に74戸を補充)により発足した新琴似兵村(屯田兵第1大隊第3中隊)の本部として、明治19年に建てられました。明治36年の屯田兵役解除後、新琴似兵村会の共有財産として引き継がれました。
新琴似屯田兵中隊本部
明治44年の兵村解散後は、新琴似屯田親交組合、新琴似兵村部落会、新琴似自治会、新琴似町内会、琴似産業組合、札幌市新琴似出張所等に使用されるなど、時代の変遷を経て昭和40年、札幌市に寄付されました。その後、昭和43年度から昭和46年度にかけて、創建当初に復元するための改修工事が行われました。
新琴似屯田兵中隊本部
昭和49年4月20日には歴史的価値が高く建築構造の上からも貴重な建造物として、札幌市有形文化財に指定されました。建物の構造は、木造、小屋裏部屋付平家建て、全体の形は素朴でおおらかであり、玄関出入口、窓回り等の細部、小屋組などの当時流行した洋風木造建築の特徴が良く残っています。(以上、現地の案内板から) 新琴似神社境内にあり、現在は、新琴似屯田兵中隊本部保存会により屯田兵に関する資料が保存・展示されています。
新琴似兵村記念碑(左)と百年碑(右))
上の写真の左端に見えるのが『新琴似兵村記念碑』で、屯田兵入植から50年を迎えたことを記念して、昭和11年(1936年)に建立されました。右に見える『百年碑』は、新琴似地区の開基100年を記念し、先人たちの偉業をたたえるとともに、地域の発展を願い昭和61年(1986年)に建立されました。
新琴似神社
新琴似兵村入植者の心の拠りどころだった新琴似神社
明治20年5月20日北海道開拓の歴史に深い陸軍屯田兵の第一大隊第三中隊が入力と同時に中隊本部の東方浄地を相して社地と定め天照皇大御神、豊受大神、神武天皇の三柱の神を奉斎する神祠を建て北辺の地に開拓と警備に精励する生活の中に心のより処とする守護神として御鎮斎されたのが新琴似神社の創祀である。(新琴似神社由緒より)
安春川
安春川 記念碑
〜 この川は明治23年、新琴似地区に入植した屯田兵が水害防止と湿地帯の農地改良のため開削した排水溝で、長きにわたり、この地にうるおいと豊かな穣りを与えてきました。しかし、札幌の発展に伴いこの地区も急激に宅地化が進み、水の流れが途絶えたままでした。平成3年11月、『先人の苦労を偲ぶプロムナード』をテーマに、下水道の高度処理水を新たな源としてかつての『せせらぎ』を回復し、木々の緑が映える快適な憩いの園として生まれ変わりました。平成3年11月25日 札幌市 〜 碑文(上写真)より
せせらぎの戻った安春川
新琴似は泥炭湿地が広がり、凶作や水害にしばしば見舞われるなど、入植した屯田兵とその家族の苦労は並大抵ではありませんでした。原生林の中の開墾に絶望して、入植した年のうちに5戸が脱落して給与地を没収されるほどでした(1)。低地は、カボチャやトウモロコシを作っても水がつき、種が腐ってしまいました。
子供たちが遊ぶ安春川公園
そこで、第3代中隊長・安東貞一郎大尉の一大決心で排水用の河川を開削することなり、屯田兵全員の勤労奉仕により明治23年、安春川の開削がなされました。結果は湿地帯が豊かな農地へ改良され、兵村の南側に隣接して誘致された帝国製麻工場の製線所の原料となる亜麻の栽培や軍馬用飼料としての牧草などが栽培されました(2)
『夏の日』のブロンズ像(残念なことに虫取網が欠落しています
−補遺−
明治20年(1887年)と21年に新琴似(現札幌市北区)へ入植した屯田兵は、九州から187戸(鹿児島県11、熊本県41、佐賀県61、福岡県55、大分県19)、その他33戸(岡山県15、島根県1、徳島県17)の計220戸でした(3)。初期の屯田兵の募集が、維新の際、朝敵として薩長土肥の西軍(官軍)に抵抗した旧会津、仙台藩士などを対象にして行われたのに対して、明治20年頃の募集は九州・中国地方を中心に行われました。つまり、明治7年(1874年)に佐賀の乱、9年の萩に乱、10年に西南の役が起こり、陸軍省と屯田兵本部は、士族が反乱を起こした地域から、積極的に屯田兵を募集したのでした(1)
  
開拓使の時代(明治2年〜同15年)には、琴似(現札幌市西区)、山鼻(札幌市中央区)の2兵村と、江別太、篠津太の2試験地に設けられただけでしたが、開拓使が廃止された明治15年(1882年)以降、陸軍省の所管となってからは、実に34兵村が建設されました。初期の兵村が、札幌本府の警備と北辺の守りをかためるために、全道の主要港湾の防備を目的としていたのに対して、後期になると営農を重視して、石狩川の流域に集中して兵村が置かれました。
    
明治8年の琴似に始まって同32年(1899年)の士別、剣淵兵村までのおよそ25年間に行われた屯田兵入植の数は、全道37村、総戸数 7,371戸。神奈川県、沖縄県を除く45都道府県から家族を合わせて約4万人が入植しました。ちなみに、都道府県別の屯田兵出身地は、最高が石川県の492人、次いで山形県の454人、宮城県の378人などとなっています(1)。屯田兵制度は明治37年(1904年)に廃止されました。

 
【参考にした図書およびサイト】
(1) 若林滋・編著「北の礎−屯田兵開拓の真相−」(中西出版、2005年5月発行)
(2) 屯田兵と北海道の開拓:新琴似兵村の今(平成23年)
(3)
新琴似兵村の紹介
 戊辰戦争から屯田兵、そして西南の役 琴似屯田兵村兵屋跡
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