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旅行記 ・琴似屯田兵村兵屋跡 − 北海道札幌市  2012.07
国指定史跡 琴似屯田兵村兵屋跡
史跡琴似屯田兵(ことにとんでんへい)村兵屋跡
屯田(とんでん)とは、兵士を遠隔地へ派遣して新しく耕地を開墾させ、平時は農業を営んで自らを養い、いざ戦争のときには軍隊に従事させ戦わせる制度、またその場所や地域をいいます。北海道に屯田兵を配備して対露防衛と開拓に当たらせる、田兵例則が明治政府によって定められたのは、明治7年(1874年)のことでした。
史跡琴似屯田兵村兵屋跡
そして、入地を琴似(ことに、現在の札幌市西区)と決め、兵屋 208戸が建築され、翌8年には、発寒(はっさむ、現在の札幌市西区)に32戸が建築されました。明治8年(1874年)5月、当時の青森県より49戸、酒田県より8戸、宮城県より93戸、道内より48戸の合計 198戸、その家族を合わせて男女 965人が琴似兵村に入植しました。
史跡琴似屯田兵村兵屋跡の説明板
北海道には、明治8年(1874年)から同32年(1898年)の25年間にわたって、37の屯田兵村がつくられ、総戸数 7,371戸、家族を合わせて約4万人が入植しましたが、琴似はその最初であり、後の兵村づくりや実際の開拓に当たっては、琴似の経験が大いに生かされました。琴似は、いわゆる『屯田兵発祥の地』です。
屯田兵屋の内部(8畳・4畳半の2間と板の間)
兵屋は、各戸に150坪(約495平方メートル)の宅地を割り当て、17坪半(約58平方メートル)の家が建てられました。家は、間口9m、奥行6.3m で8畳と4畳半の2間に、炉を据えた板の間、土間、便所からなり、流し前は板の間あるいは土間におかれました。
当時使用されていた箪笥(たんす)
石碑
屯田兵屋の構造
史跡琴似屯田兵村兵屋跡
札幌市西区琴似2条5丁目にある『史跡琴似屯田兵村兵屋跡』は、琴似に入植した屯田兵の兵村と住んでいた兵屋を理解する上で重要な遺跡で、1982年に国の史跡に指定されています。琴似屯田兵村は正式名称を『屯田兵第1大隊第1中隊』といい、現在の兵屋は、琴似屯田兵村の 208戸の兵屋のうちの一つを復元したものです。明治8年に建設された『第133号兵屋』で、屯田兵が入植した際、清野専次郎に与えられた兵屋です。居住者となった専次郎は、宮城県亘理郡小堤村出身の人物でした。建物は1970年まで同位置に残されていたが、その後1972年に改築、建設当初のまま復元されて現在に至っています。兵屋跡には兵屋のほかに、建物北東側に畑や土地が当時のまま残されています。
当時のランプ
屯田兵屋は、明治初期の住宅としては水準以上のものであり、当時の民家に比べれば恵まれたものでしたが、それでも、高い天井には天井板がなく、小屋組みの太い梁がむき出しで、冬季には戸口や雨戸、障子越しに吹き込む寒さに非常な苦痛を強いられたといわれています。
柾(まさ)とそのつくり方
上の写真にある『柾』(まさ)は、柾目(まさめ=樹心に平行なまっすぐな木目)の木材を削って薄い板にしたもの。そのつくり方の説明図がありました。この柾を積み重ねて葺(ふ)いた屋根が柾葺き屋根です。屯田兵屋は柾葺き屋根に煙だしがついていました。
当時の農機具
琴似神社 
屯田兵とともに歩んできた琴似神社
琴似屯田兵村の南西の外れにあった練兵所・授産所(養蚕室)跡に建てられている『琴似神社』は、琴似に屯田兵が入植した1875年(明治8年)、入殖と同時に祀られた神社です。一部の兵士の出身地であった仙台藩亘理伊達氏の祖伊達成実を武早智雄神として祭神としました。
北海道指定有形文化財・琴似屯田兵屋の標識
はじめは、武早神社といって、水上通りに置かれていましたが、明治30年(1897年)に琴似神社に改称。大正4年(1915年)、現在地に移転。琴似村の住民を氏子にして明治時代には出店、芝居、蓄音機が出る、年に一度の祭りが村人総出の楽しみだったそうです(ウィキペディアを参考)。境内には、屯田兵屋が原型のまま残されています。
屯田兵屋
開拓使時代当初の屯田兵屋
境内に保存されているこの屯田兵屋は、開拓使時代(明治2年〜明治15年)初期の集団兵屋の一戸で、一部が修復されていますが建築当時そのままの姿です。間取りは8畳と6畳の2部屋。今で言う1LDKといったところです。内部に陳列されているものも、屯田兵に与えられた給与品などが多く、当時の生活や開拓の苦労が偲ばれます。
屯田兵屋の説明板
この屯田兵屋が建っていたのは現在の琴似1条5丁目にあたる琴似屯田兵村で、これは明治7年11月28日に出来た最初の屯田兵屋です。屯田兵たちはここに寝起きして札幌の開拓にとりかかったのです。この兵屋は、佐藤喜一郎氏が入居していた番号140番(下図を参照)の兵屋です。〜 以上、 琴似屯田兵村兵屋(琴似神社)パンフレットより
当時の日用品が陳列されています。
琴似栄町通り(案内板B(下図参照)を宮の沢北一条線側からみる)
E畑をつくるのにじゃまな木を伐採します。これはかなり危険な仕事です。木が倒れる時、へたに遠くに逃げると危険です。なるべく木のそばにいた方が安全です。
Fクマがたまには民家を襲いました。その時は、みんなで(鉄砲で)撃退しました。
G上官が一週間に一回、屯田兵の家や、くらしぶりを検査しました。一番緊張するときです。
H夕方6時のラッパで家に帰ります。
I夕食です。一日で一番楽しいひとときです。
Jつらい仕事に耐えて思いだすのは、ふるさとのこと。春がもうすぐ、そこまでやってきています。
屯田兵の一日
以下は、屯田兵の一日について、琴似屯田兵村兵屋跡に掲示してある『屯田兵の一日』と題するまんが絵から転載させてもらったものです。
  
@朝、起床ラッパとともに起きます。
A6時、おとうさんは軍事練習。おかあさんは農作業。子供はおかあさんの手伝い。
Bおとうさんは昼休みを除いてきびしい訓練です。
Cおかあさんの農作業を手伝ったあと、子供は勉強に行きます。
D訓練を終えておとうさんが畑仕事の手伝いにきます。
琴似神社・本殿
神社境内にある『琴似兵村五十年記念塔跡』の説明板
 
屯田兵村
現在の琴似栄町通り(案内板A(下図参照)をJA琴似駅方面からみる)
軍隊の仕組みの一つである中隊は、200〜240名くらいで組織されていましたから、普通は一つの屯田兵村が一つの中隊になっていました。屯田兵の開拓のもととなる土地は、一戸につき五千坪( 115アール)の開墾地が支給されました。琴似兵村は、初の試みということで、その後も数回に分けて支給されました。
琴似屯田兵村配置図(琴似屯田兵村兵屋跡パンフレットより。一部加筆)
一戸一万五千坪から階級別に下士官以上になると二万坪も支給されました。しかし、未開の土地を手作業で切り開いていくことは、なみ大抵のことではなく、しかも補助の打ち切り後の生活は決して楽ではなかったようです。明治37年(1904年)、屯田兵制度は廃止され、開墾地が無償で払い下げられました。
当時の屯田兵村の様子(琴似屯田兵村兵屋跡で撮影)
開墾地が無償で払い下げられると、土地の売買が始まり、他の新しい職につくためにこの地を去る者、他地域より入ってくる者など、他の村と同様に自由な琴似村になりました。兵村の中央道路はそまま商店街となり、今日まで百三十年の歴史を刻み、現在の繁栄をみるにいたりました。〜 以上、 琴似屯田兵村兵屋(琴似神社)パンフレットより
当時の屯田兵村の様子(琴似屯田兵村兵屋跡で撮影)
 
屯田村の数と分布 
屯田兵村の設置は、明治8年(1874年)の琴似に始まって同32年(1898年)の士別、剣淵兵村までおよそ25年間にわたって行われました。開拓使の時代(明治2年〜明治15年)には、琴似、山鼻の2兵村と、江別太、篠津太の2試験地に設けられただけでしたが、開拓使が廃止された明治15年(1881年)以降、陸軍省の所管となってからは、実に34兵村が建設されました。
 
初期の兵村は、札幌本府の警備と北辺の守りをかためるために、全道の主要港湾の防備を目的としていましたが、後期になると営農を重視して、石狩川の流域に集中して兵村が置かれました。その数は、全道37村、総戸数 7,371戸、家族を合わせて約4万人が入植しました。
北海道全道の屯田兵村の分布(琴似屯田兵村兵屋(琴似神社)パンフレットより)
 レポート ・屯田兵について
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