レポート | ・ 戊辰戦争から屯田兵、そして西南の役 |
− 戊辰戦争から屯田兵、そして西南の役 −
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戊辰(ぼしん)戦争(慶応4年〜明治2年)、屯田兵(明治8〜明治37年)、そして西南の役(明治10年)。時の流れのなかで、歴史が交錯し、人が、人の思いが交錯します。若林滋・編著『北の礎−屯田兵開拓の真相−』(中西出版、2005年5月発行)を読みました。本レポートは、主としてこの本を参考にさせて頂いて書きました。 *** 明治5年(1872年)、西郷隆盛は北海道に屯田兵を配備してロシアに対する防衛と北海道の開拓に当たらせる、屯田兵構想を打ち上げます。西郷は、旧士族らの失業対策として、彼らを北海道の開拓と防衛に当たらせようと考えました。特に、戊辰戦争で禄を失った東北の旧士族の授産対策が薩長政権の緊急課題でした。そのために、屯田兵の初期の募集は東北に対して行われました。 最初の屯田兵として、明治8年(1874年)5月、琴似兵村(現在の札幌市西区琴似)に入殖したのは、戊辰戦争において幕府への忠義を貫いたがために『朝敵』『賊軍』の汚名を着せられ、厳しい処遇を受けた東北諸藩(斗南藩、庄内藩、仙台藩)の元武士たちでした。道内よりの48戸を含めて、 198戸(家族を合わせて男女 965人)が入植しました。 屯田兵は、明治2年に創設された開拓使の下に置かれていました。その開拓使は薩摩閥が牛耳っていました。明治8年でみれば、長官黒田清隆、中判官堀基、幹事調所広丈、安田定則、永山盛弘など、七等出仕以上の幹部26名中薩摩出身が11名を数えました。 *** 戊辰戦争後消滅した会津藩は、新政府により藩主松平容保(かたもり)と全家臣が東京や越後高田に移送されて謹慎の身となりますが、家名再興運動の結果、明治2年に『斗南藩(となみはん)』 として再興を許されました。 斗南藩の藩主は数えわずか二歳の松平容大(かたはる)。領地は本州最北端の下北半島と三戸(さんのへ)、五戸(ごのへ)を中心とした一帯で、禄高は公称三万石といわれましたが、その実は七千石ほど。不毛の地に藩士と家族一万数千人が移り住んだのです。家名再興に名を借りた挙藩流罪ではなかったか。 米が乏しいので、昆布やワカメを拾ってきて粥にし、それを夏は野の草、冬は塩大豆をおかずにして食べました。ついには、犬の肉まで食べざるを得ない状況でした。そんな辛苦の果てに、戊辰の恨みを飲み込んでまで、怨念の仇敵、薩摩が牛耳る開拓使の屯田兵募集に旧会津藩士が応じたのは、それほどまでに斗南の暮らしが厳しく前途に希望が持てなかったためでした。 北海道には、明治8年(1874年)から同32年(1898年)の25年間にわたって、全道で37の屯田兵村がつくられ、総戸数 7,371戸、家族を合わせて約4万人が入植しますが、最初の屯田兵村であった琴似の経験が、その後の兵村づくりや開拓において大いに生かされていきます。 *** 西郷隆盛は屯田兵計画の実現をみることなく明治6年(1973年)9月に下野して鹿児島に帰り、西郷の影響を受けた開拓使次官の黒田清隆が屯田制を建議しました。そして、明治10年(1977年)2月、西南の役勃発。 この西南の役に屯田兵も動員されます。同年4月、開拓使黒田長官の命により、琴似兵村 244名と山鼻兵村 239名の屯田兵に民間人を加え合計 645名の遠征軍が編成され、出征しました。 遠征隊と弾薬や装備を満載した汽船は4月15日小樽港を出帆し、同月23日、目的地の肥後・百貫石港に着きました。すでに西郷軍は熊本城の囲みを解き、二手に別れて大津、人吉方面へ退いており、屯田兵は八代から人吉への進撃に加わって、交戦を重ねました。 東北諸藩を朝敵として攻めた薩摩が、今度は朝敵に回りました。それを攻める屯田兵の指揮官の多くは薩摩出身者でした。一方、屯田兵は、東北諸藩の元武士がほとんどでしたから、維新の屈辱の意味もあって勇敢に戦ったといわれます。 戦争の終わりが見えると、遠征隊は8月16日に帰郷命令を受け、同月21日鹿児島を出港し、神戸、東京を経て、29日に小樽に帰港しました。それから約一ヶ月後の9月24日、鹿児島の城山で西郷隆盛以下が死に、西南の役は終わりました。西郷が終焉を迎えた『城山』攻撃になぜ屯田兵を参加させず、帰国が命じられたのかは、屯田兵遠征 の謎とされています。 *** 初期の屯田兵の募集は、維新の際、朝敵として薩長土肥の西軍(官軍)に抵抗した旧会津、仙台藩士などが対象でしたが、中期の頃の募集は九州・中国地方を中心に行われました。すなわち、明治7年(1874年)に佐賀の乱、9年の萩に乱、10年に西南の役が起こり、陸軍省と屯田兵本部は、士族が反乱を起こした地域から、積極的に屯田兵を募集したのでした。 屯田兵の募集に応じて津軽海峡を渡り、北の大地を拓いてそこに骨を埋めた鹿児島出身者は 212戸、家族とも 500人を上回ったといわれます。その全員が鹿児島県士族でした。 【参考図書・文献およびサイト】 (1) 若林滋・編著「北の礎−屯田兵開拓の真相−」(中西出版、2005年5月発行) (2) 屯田兵−wikipedia |
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