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旅行記 ・三寺まいり − 岐阜県飛騨市古川町 2018.01.15
三寺まいり
多くの観光客で賑わう
高山からJR高山本線で富山側へ3つ目の駅が飛騨市古川町。
一般に『飛騨古川』といわれます。
高山ほどの規模は
ない小さい街ながら、清らかな瀬戸川に沿って白壁土蔵や
出格子の町家が立ち並ぶ風情ある町です。
多くの観光客が
高山止まりなので、静かな中で散策を楽しむことができます。その飛騨古川で
毎年1月15日に開催されるのが『三寺まいり』。
 
親鸞聖人のご遺徳を偲び、
円光寺、真宗寺、本光寺の三つのお寺を詣でるならわしが
今なお続く、二百年以上続く伝統行事です。
瀬戸川沿いの千本ろうそく、
そして町中の目抜きどおりに立てられた大きな雪像ろうそくの炎が揺れ、
1月15日の飛騨古川は幻想的な世界に包まれます。
『三寺まいり』の三つの寺の
なかの寺である円光寺には、『三寺まいりと大和ろうそく』と題する
以下内容の説明板が掲示されています。
 『三寺まいりと大和ろうそく』
浄土真宗の宗祖親鸞上人は、承安3年(1173年)5月21日に公家の子として誕生され、
弘長2年(1262年)1月16日90才でなくなられた。
そのころ、平安時代から鎌倉時代は特に戦乱、
陰謀、権力の争い、疫病、飢きん、僧侶の堕落の日々、上層の人々をのぞいて、一般民衆は
心の慰めも、よりどころもない惨めな生活の中に行き、そして死んでいった。
そのような時代の中で
法然上人に導かれた親鸞聖人はあらゆる人々に光と希望を持たせる阿弥陀如来の
大きな本願に、真実の道と救いを求められ、
一生を愚かな親鸞、
煩悩の深い親鸞として、民衆と手をとりあってみ教えを伝えられ一生を
過された大愚に徹した大いなる聖者であった
その御正忌の1月9日より
16日まで本山、西本願寺では毎年報恩講が勤められ、一般末寺もそれにならって御七昼夜の勤行を
つとめ、参けいの人々は宗祖の御苦労をしのびつつ聞にいそしむのである。
特に15日の晩の
宗祖が御往生になり前夜には古川町やその近在の人々が群れをなし
町内、西本願寺派三ヶ寺すなわち、
真生寺、本光寺、円光寺を
巡拝してから、それぞれの寺におちつき、勤行に加わり御伝鈔。説教を聴聞し、
16日の朝まで夜を徹して聖人のお徳を賛嘆したのであった。
そのため、長時間もえる
大和ろうそくをつくって宗祖前にお供えすることになった。この風習は約二百年前から続いていて
『古川の三寺まいり、大和ろうそく(二〜三貫目)』として全国に知られつつある。
雪深い山の町の人々に、
お七昼夜さまの三寺まいりは、やがて訪れる春を
まちつつ心の支えとなっているのである。
以上、
古川町観光協会、三寺まいり大和ろうそく奉賛会の
説明文(円光寺)を転載
三寺まいりの日
古川町の郊外の
田んぼや畑、原野は写真の通り一面の積雪。この雪を木枠の型に入れて固めて、
高さ2メートルを超す雪像ろうそくがつくられます。
去年、おととしは、
雪不足のため市街地から15キロ離れた山から雪を運んできたそうですが、
雪が多い今年は市街地に積もった雪を使用できました。
雪像ろうそくは、
硬くするため水を加えた雪をショベルカーで木製の型枠に入れ、塩を
混ぜながら足で踏み固めてつくるのだそうです。
つられた30本の雪像ローソクは
クレーン付きトラックによってそれぞれの目抜き通りに配られて立てられます。
倒れないよう、根元に雪を固めて土台がつくられます。
一方、千本ろうそくが灯され
お参りが行われる会場の瀬戸川には、高さが目抜き通りに立てられたものの
半分の1メータの雪像ろうそくが立てられました。
 
 そして、主催者の方々が
千本ろうそくが灯す台を設置したり、ライトアップのライトを
設置したり、準備が進められていました。
 飛騨地方は、明治・大正時代に
野麦峠を越えて、若い多くの女性たちが、製糸業の盛んな信州諏訪へ
女工として出稼ぎに行ったところです。
 
一年の糸引き奉公を終えて
12月末に帰省した女性たちが、着飾って三寺まいりに出歩き、男女の出合いが出会いが
生まれたことから縁を結ぶ行事としても受け入れられてきました。
 
まつり広場では、お昼正午から
岩魚の塩焼きや五平餅などの飛騨の味が楽しめ門前市が開かれ、戦国時代末期に瀬戸川を開いた快存上人の
墳墓である上人塚の前には、絵手紙の雪行灯が並べられていました。
   きつね火まつり  飛騨古川
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