♪秋の歌(チャイコフスキー)
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佐土原を訪ねて − 宮崎市
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宮崎市の北端部に位置する佐土原は、佐土原藩2万7千石の城下町でした。元々は大友氏に属する伊東氏の拠点地でしたが、豊臣秀吉の九州征伐前後、そして関ヶ原の戦い後のいくつかの紆余曲折を経て、薩摩藩の支藩・佐土原藩となり、明治までの 270年間、11代にわたって続きました。佐土原人形、銘菓・鯨ようかんのこと、米国留学生活7ヵ年の後西南の役で薩軍に身を投じ、弱冠21歳で戦死した島津啓次郎のこと、佐土原歴史資料館・鶴松館、そして佐土原城跡などの風景をアップロードしました。                               (旅した日 2008年08月)



佐土原人形
義経千本桜・静御前と狐忠信
佐土原人形
 
佐土原の土人形は、今から400余年前の慶長の役(1597年)の後、朝鮮から佐土原に移り住んだ高麗の人たちが、戯れに人形を作り始めたのが起こりとされています。明治初期から大正時代には、窯元が14軒もあって人形作りが盛んだったそうです。現在は、残された型を基に、町内2軒の製作所で製作が続けられています。
 
佐土原藩は京都の伏見に藩邸を持っていたから、伏見の文化も早くに入ってきたと思われる。古い人形は京都伏見人形の流れを汲むといわれ、節句物、縁起物、風俗物などが作られましたが、明治時代からは佐土原独特の歌舞伎組人形が多くつくられるようになりました。饅頭喰い人形に見られるように、四等身と素朴さ、温かい彩りの調和が佐土原人形の特徴だといわれます。
饅頭喰い 饅頭喰い(童子)
饅頭喰い

佐土原の代表的な人形である『饅頭喰い』は、『お父さんとお母さんどっちが好き?』と問いかけられた幼童が、手にした饅頭を二つに割って『この饅頭はどちらがおいしい?』と問い返したという逸話を持つ人形です。

『饅頭喰い』は伏見で作られたの最初といわれ、伏見稲荷の土産として各地へ運ばれるうちに、全国のあちこちで作られるようになったそうです。伏見などの『饅頭喰い』が男の子(写真右)なのに対して、佐土原では途中から女の子の『饅頭喰い』(写真上)が作られるようになりました。
 
明治期から続く佐土原人形店『ますや』の三代目坂本兵三郎氏が、大正の初めに、人形は女の子が持つから女の子にした方がいいとの思いから、女の子にしたのだそうです。それ以来、佐土原では女の子の『饅頭喰い』が作られてきました。
Data
佐土原人形製作所 ますや  
宮崎県宮崎市佐土原町上田島1396-10
電話&FAX 0985-74-4349
 
 
旧家、そして 鯨ようかん
佐土原小学校がある上田島地区付近は、佐土原藩城下の商家町として栄えたところでした。当時の佐土原城下は、9つの町から成る規模で、総称して『佐土原九坊』と呼ばれていたそうです。現在は、旧日向街道沿いにわずかな家並みが残るのみで、江戸時代より味噌・醤油醸造商であった旧阪本家邸(現在は町に寄贈され、商家資料館として保存公開されている)が、往時を偲ばせています(写真左)。
鯨ようかん
 
佐土原の銘菓として有名なのが『鯨羊羹(鯨ようかん)』です。米の粉を練って作った餅をあんこで挟んで蒸した和菓子。日持ちがしないため、現地でしか食べることができず、『幻のお菓子』とも言われるとか。他の場所では、宮崎空港1階売店で当日朝に作ったもの(数量限定)、東京にある『新宿みやざき館 KONNE』で冷凍されたものが入手できるそうです[1]。
 
佐土原藩4代藩主島津忠高が26歳で早世。その子・万吉丸は 2歳にも満たない年齢であったため、世継ぎを巡って争いが生じました。 その混乱の中、万吉丸の母・松寿院が『息子と藩が、大海を泳ぐ鯨のように力強く たくましく育って欲しい』と願いを込めて鯨に似せた羊羹を作らせたのが始まりと言われます。 万吉丸は後に第6代藩主島津惟久となり、名君と慕われました[1]。
旧阪本家邸
佐土原町内には鯨ようかんを売る店が7つほどあるそうですが、入ったのは、広瀬中学校下の国道10号線沿いにあるお菓子処『やよい堂』さんでした。一折(9個入り)を購入して、店内のテーブルを借りて写真を撮らせて欲しいと奥様にお願いすると、実は『丸に十の字紋』を入れた当店オリジナルの重箱があるのですよと言って見れて下さるので、それを借り、詰め直してもらって写真を撮りました(写真下)。
わずかに残る町並み
良い写真が撮れた上に、嬉しいことに重箱をサービスしてもらいました。そして、家に帰っら、鯨ようかんの美味しさもさることながら、頂いた重箱に喜んだ連れ合い殿でした。また行く機会があったもう一個欲しいと言います。今度は、ちゃんと重箱入りで買うことになります。
Data
お菓子処 やよい堂
佐土原町下田島20296-194
TEL 0985-73-2392


 
佐土原歴史資料館 鶴松館
佐土原島津藩主の屋敷兼政庁跡に立つ資料館。二代藩主忠興が裏の山上から山下のここに本丸を移しました。明治二年に、佐土原城が広瀬地区に転城のため取り壊され田畑になっていましたが、平成元年発掘調査が行われ、遺構に基づいて復元され、資料館となっています。広瀬への転城は廃藩置県のため中止になり、佐土原城は完成しませんでした。館内では、佐土原島津家の調度品や佐土原人形などが展示されています。資料館の裏山には佐土原城の土塁や空堀、天守台跡などが現在も残っています。
佐土原藩
佐土原は大友氏に属する伊東氏の拠点地でしたが、天正6年(1578年)に島津義久・義弘・歳久・家久の四兄弟に攻められ、島津家久が地頭職になります。天正15年(1587年)の秀吉の九州征伐によって、島津一門が秀吉の軍門に降った後も、家久の子・豊久が領地を安堵されます(石高2万8600石)。しかし、慶長5年(1600年)の『関ヶ原の合戦』で島津勢は敗退し、伯父義弘の敵中強行突破を支援すべくその殿(しんがり)を務めた豊久が戦死していまうと、領地佐土原は徳川家康に没収されました(下へ続く)。
 
 
 
佐土原城跡
その後、義弘の子・忠恒と家康との間に『和睦』が成立。家康は薩摩・大隅・日向諸県郡の所領を安堵し、忠恒を島津家18代当主(初代薩摩藩主、島津家久)として承認し、慶長8年(1603年)に征夷大将軍となり江戸幕府を開きます。
 
この年に、家康は没収していた佐土原を島津氏に返還しますが、返還先は豊久系の家ではなくて、垂水島津家でした。大隅国垂水の城主であった島津以久(ゆきひさ)が封され、以後佐土原藩は明治までの270年間、11代にわたって続きました。
写真は上から、
鶴松館の裏の田んぼに立つ『御厩役所跡』の案内杭、出土文化財管理センター、その横に立つ『御普請所跡』の案内杭、佐土原城跡から望む鶴松館の光景。
裏より見る鶴松館(写真下)



島津啓次郎
島津啓次郎
・安政3年(1856年)、第11代佐土原藩主島津忠寛の三男として誕生。
・3歳の時、家老家・町田氏の養子となる。
・10歳の時、鹿児島に遊学。翌年、東京に移り勝海舟門下生となる。
・明治3年(1870年)、藩費留学生として渡米。
 ニューハーベン、グリンブルドなどで英語、フランス語、文学、数学等
 を学び、アナポリス海軍兵学校に学ぶ。
・明治6年(1873年)、留学中に町田家との養子縁組を解消。
・明治9年(1876年)4月に帰国。
・郷里佐土原に戻り、廃寺となっていた寺を利用して私塾を開く。
・明治10年(1877年)私学校・文黌(きょうぶんこう)を設立。
・これと同時期、西南の役勃発。。
・家族の反対を押し切り、佐土原隊を結成し薩軍として参戦。
・同年3月、田原坂の戦いで薩軍大敗北をきす。宮崎に撤収。
・単身上京し、西郷隆盛の助命や事態の打開に務めるが失敗。
・再び薩軍に合流、可愛岳、三田井、椎葉、米良、小林を転々とする。
・明治10年(1877年)9月24日、鹿児島市の城山にて戦死。享年21。
  
写真は、
広瀬中学校に建てられている像(写真上)
島津啓次郎(1856〜1877年)(写真上)
護国神社にある戦没招魂塚(写真下右)
には側面に『島津啓次郎』の名が刻まれています。
 
広瀬小学校(写真下)
は、明治2年から明治4年までの短い期間、佐土原城から広瀬へ転城された場所。広瀬城は完成する前に、廃藩置県になり、取り壊されました。西南の役では、銃器製作場となり校舎が兵火に遭い、焼失しました。
 
 
【参考サイト】
[1] フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 レポート ・島津啓次郎 〜 西南戦争人物伝(3)
 
 
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