レポート  ・島津啓次郎 〜 西南戦争人物伝(3)   
− 島津啓次郎 〜 西南戦争人物伝(3) −
江藤淳氏は、著書『南洲残影』でいわく、西南戦争における官軍と薩軍の対決は、決して開明派と土着派の対決などという、単純な図式で割り切れるものではあり得なかった。西洋をよく知りながら西郷の軍に投じた者もいたのであると。
 
村田新八がそうであり、”飫肥(おび)西郷”と呼ばれ親しまれた宮崎県日南市出身の小倉処平(おぐらしょへい)がそうでした。そして、佐土原藩(さどわらはん)藩主の三男として生れながら、21歳という若さで鹿児島城山に散った島津啓次郎がいました。
 
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宮崎市の北端部に位置する佐土原は、佐土原藩2万7千石の城下町でした。元々は大友氏に属する伊東氏の拠点地でしたが、豊臣秀吉の九州征伐前後、そして関ヶ原の戦い後のいくつかの紆余曲折を経て、薩摩藩の支藩・佐土原藩となり、明治までの 270年間、11代にわたって続きました。
 
島津啓次郎は、その第11代佐土原藩主・島津忠寛の三男として、安政3年(1856年)佐土原に生れます。3歳で寺社奉行町田宗七郎の養子となり、10歳のとき、鹿児島に留学。藩儒学者のもとで儒学学修し、このときに西郷隆盛の”敬天愛人”の至誠道にも触れたいわれます。
 
さらに翌年には、東京に移り、勝海舟門下生となります。啓次郎を初めて見たとき、その風貌と気迫に、”坂本龍馬の再来か”と驚いたという勝海舟は、啓次郎の眼を世界へ向けるべくアメリカ留学を勧めます。
 
明治3年(1870年)、薩摩藩費留学生として12歳の若さで渡米。アナポリス、ニューハーベン、グリンブルドなどで英語、フランス語、文学、数学等を学び、アナポリスではアナポリス海軍兵学校に籍を置きました。留学中の明治6年(1873年)、留学資格の都合上の理由で町田家との養子縁組を解消、島津家に復籍。
 
滞米生活7ヵ年を経て、明治9年(1876年)4月に帰国。当時設立準備中だった学習院のポストが準備され、意見を聴くべく招聘を受けますが、その設立意図が、華族の子弟のみを教育するという旧態依然としたものであることに反発し、辞退します。
 
望郷の思いを抑えきれず、師匠であった勝海舟に書いてもらった西郷隆盛あての紹介状を懐に佐土原へ帰郷。帰郷後すぐさま、廃仏毀釈により廃寺となっていた寺を利用して私塾を開き、集まった同志と一緒に生活しながら、学習会を始めます。アメリカで学んだ自由民主の思想や知識を伝えようとするものでした。
 
3ヶ月後には、周囲の奔走により私学校へと発展。帰国後構想を温め、準備を進めてきた学校『きょう文黌(きょうぶんこう)』を立ち上げます。しかし、学校を立ち上げたばかりの明治10年(1877年)2月5日、鹿児島の私学校徒が西郷隆盛を擁して決起。
 
有司専制(藩閥のエリートが独断的に政治を行うこと)の政府を倒すのだ! 家族の反対を押し切り、『吾人の為さんと欲する所を為すのみ』として、啓次郎は立ち上げたばかりの学校を休校にして、西郷隆盛のもとに駆けつけます。
 
しかし、西郷は啓次郎の参戦を拒否します。理由は、啓次郎が若く有為な人材だったこと、主家の島津氏の一族だったことなどによるとされています。しかし、啓次郎は佐土原の同志200余人とともに押しかけて参軍。
 
啓次郎率いる『佐土原隊』は、熊本の各地を転戦しますが、薩軍側は次第に劣勢となり、薩軍の田原坂の戦いでの大敗北により、啓次郎は佐土原隊と共に佐土原に撤収。その後、単身上京し、つてを頼って隆盛の助命や事態の打開に務めましたが、うまくいかずに郷里、やむなく再度薩軍に合流、可愛岳、三田井、椎葉、米良、小林を転々とし、同年9月24日、城山にて戦死。享年21でした。
 
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『小説島津啓次郎』の著者・榎本朗喬氏は、『佐土原藩史稿』の著者で元佐土原教育会会長、郷土史家の桑原節次氏の次の言葉を、取り返しのつかない人材の喪失と、国家の危急存亡を憂う氏の名言としたしとし、その著書に引用しています。
 
− 彼をして寿を全うせしめれば、其の経綸によって国家に裨益する所、蓋し尠少でなかったであろう −
 
【用語】
〔経綸(けいりん)〕=国家を治めととのえること。
〔裨益(ひえき)〕=利益となること。助けとなること。
〔尠少(せんしょう)〕=非常に少ない。
〔蓋(けだ)し〕=確かに。おそらく。たぶん。
 
【参考サイトおよび文献】
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
みやざきの101人(島津啓次郎)
・『小説島津啓次郎』(榎本朗喬著、2003年1月、鉱脈社発行)
 

2008.11.04 
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