♪アリラン(朝鮮民謡)
童謡・唱歌の世界
美山窯元まつりの日 − 鹿児島県日置市
                        (
410余年の歴史が今に引き継がれている薩摩焼のふるさと美山で今年(2009年)も10月31日〜11月3日、窯元まつりが開かれました。豊臣秀吉の慶長の役に出兵した島津義弘によって連れてこられた朝鮮陶工のふるさと韓国全羅北道南原(ナムウォン、ナモン)市から市立国楽団が来日して舞踊等の公演が行われるというのでみにいきました。朝鮮陶工たちが望郷の悲しみに耐えながら上陸し半農半窯の生活を始めたといういちき串木野市にはいまその記念碑が建てられています。美山窯元まつりの日、併せてそれら由来の場所も訪ねました。
                                         (旅した日 2009年10月)
        
        
薩摩焼開祖着船上陸の地
島平(しまびら)
いちき串木野市の照島海岸の北の端にある照島公園(いちき串木野市西島平)に車を停めると『朝鮮陶工上陸の碑』という小さな案内標識があって、矢印に沿って赤い橋(写真左)を渡ると照島神社の鳥居の脇に、『薩摩焼開祖着船上陸記念碑』があります(写真上)。
     
 
    慶長三年冬
   遙かに風涛を越え
   吾等が開祖この地に上陸す

     
薩摩焼宗家十四代 沈寿官書
 
慶長の役後の慶長3年(1598年)12月、島津義弘によって連れてこられた朝鮮陶工が漂着した照島海岸島平の地に建てられた記念碑であり、14代沈寿官書による上記碑文が彫られています。

 
かれら韓人たちは、島平に漂着した。(略中) このときの望郷の悲しみはかれらの家々に伝承され、家霊のように棲みついたであろう。航海中、病気になった何人かは、この浜で死んだ。かれらは遺骸を抱いて砂浜をのぼり、松林のかげに葬った。
          
〜司馬遼太郎著『故郷忘じがたき候』より
照島神社から眺める照島海岸(写真下)
      
   
さつま焼発祥の地
本壺屋(もとつぼや)
島津義弘によって連れてこられた朝鮮陶工70余名のうち鹿児島に行くことをこばんだ男女43名は島平に上陸し、当地において、焼物を作り生活をささえたのである。
 
当時島津家の内乱や、関ヶ原の戦により、藩庁の保護が十分でなかったこと、加えて服装・習慣・ことばの違いなどから、土地の人々との関係がうまくいかなかったため、5年(一説には6年)の後、安住の地を求めて、苗代川(現在の美山)に移住したといわれている。思うに、ここ串木野の本壺屋は、日本陶芸史上重要な土地である。
〜以上、串木野市(現いちき串木野市)教育委員会の案内板より
さつま焼発祥の地から見える唐船塚(写真下)
船を逆さにしたように見える山(写真上)は、唐鮮塚(現在、唐船塚)と呼ばれる山で、この山の周辺で朝鮮陶工たちの半農半窯の生活が始りました。
    
    
玉山神社
玉山神社の第二鳥居(写真下) 玉山神社(写真上)
苗代川(美山)
最初に居を定めた本壺屋からふたたび流亡せざるを得なかったかれらは内陸をめざし、道を東にとりました。しかし、わずか二里(8km)ばかり行ったとき、
  
   
コノアタリ、故山ニ似タリ
  
天は広く、丘陵はなだらかで、どこか南原(ナモン)の城外に似ていたのでした。ここ苗代川を安住の地とした伸、李、朴、鄭、崔、沈、金ら十七姓の島平漂流組は、島津義弘より扶持を与えられ、士分に取り立てられ、門を立て塀をめぐらすことを許されたのでした。
玉山神社
玉山神社(たまやまじんじゃ)は朝鮮陶工たちの故郷、朝鮮神話の始祖『壇君』を祀ったのが始まりとされています。美山のメインストリート『桜馬場』の西端横にある鳥居をくぐって約200mほど進むと第一鳥居。それを潜って急な坂を200m程上ると第二鳥居(写真左)があり、そこからは高台に広く開けたお茶畑になっています。お茶畑に沿って400m程度行った奥まった静かな森の中に玉山神社はあります。
 
その海の水路はるかかなたに朝鮮の山河が横たわっている東シナ海の見える場所に、かの国に眠る先祖の霊をなぐさめる祭壇を設けたのでした。
      
      
朴平意記念碑
東将台(写真上・下)

朴平意(はくへいい)は朝鮮で生まれ、豊臣秀吉の慶長の役で出兵した島津義弘に連れられてきた。慶長3年(1598年)薩摩国日置郡串木野島平に、上陸した平意は、陶工リーダーとして串木野の荒地の中に窯を築き製陶を始めたが、苦難の生活が続いた。5年後、苗代川(現在の美山)に移り純良な土を見つけるために藩内くまなく探し、やっと霧島山中・指宿・加世田等で白土や薬石、なら木、の類いを発見した。その間、心はあせり苦心惨憺寝食を忘れる事もあった。そして、やっとのことで色の純然とした質の高雅のものを作りあげ、早速これを藩主に献上した。藩侯の喜びは大変なもので、義弘より清右衛門の名を与えられ苗代川初代の庄屋を命ぜられた。それから陶器の製造が盛んになり、薩摩焼の名声は世にあらわれるようになった。平意は、寛永元年(1624年)5月、65歳で病死した。平成10年3月31日 再建 東市来町教育委員会 〜 現地案内板より。

   
   
窯元まつりの日
メインストリート『桜馬場』(写真上)

沈寿官窯で(写真上)
沈寿官窯には、大韓民国名誉総領事館の表札があります。『柿の爆弾』という洒落は、司馬遼太郎著『故郷忘じがたく候』に書かれた文章を思い出させます。
 
沈寿官氏の風貌のどこからみても冗談(チャリ)のすきな薩摩人でしかなかった。
 
前の道路の話しが出た。昔からあのように広かったのですか、ときくと昔からひろかです、道路が馬でも駆けらすように広かため、桜馬場と言われちょりました、と沈氏は言った。〜 司馬遼太郎著『故郷忘じがたく候』より 
  
通常は静かなそのメインストリート『桜馬場』もまつりの日は人と車で混雑していました(写真上)。
沈寿官窯で(写真下)
炎舞陶苑で(写真下) 沈寿官窯で(写真下)
       
       
韓国南原市立国楽団

南原市から美山まではドア・ツウ・ドアで21時間を要したそうです。韓国でもう寒い季節が始まっているということですが、美山は快晴の気温の高い日でした。温かさに皆さん驚きながら、歌、舞踊、高音チョデ独奏、テグム独奏、大笛(テビリ)、テビョンソ独奏、民謡などの披露となったようです。
故郷忘じがたく・・・、韓国全羅北道南原(ナムウォン)市は美山陶工先祖のふるさとです。410余年の時を経て、2008年、南原市と日置市の間に『文化交流友好協力関係協約』が締結されました。今後さらに文化交流の輪が広がって行くことでしょう。
   
   
元外相・東郷茂徳
元外相東郷茂記念館広場の二本の大楠(写真下) 元外相東郷茂徳銅像(写真上)
  
東郷茂徳(とうごう しげのり)
韓国南原市立国楽団公演は、『元外相東郷茂徳記念館』広場に設営された特設ステージで行われました。鹿児島で東郷といえば、元帥海軍大将の東郷平八郎ですが、全く血縁関係はありません。
 
東郷茂徳(1882年〜 1950年)は、美山に渡来した朝鮮陶工の一氏である朴氏の子孫から出た日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時および終戦時の日本の外務大臣。父、朴寿勝は優れた陶工でしたが、明治時代に士族株を購入して東郷姓に改める。
 
欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して、日米開戦を避ける交渉を開始しましたが、統帥部の強硬な反対とアメリカ側の強硬な態度から日米開戦を回避できませんでした。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力しました。にもかかわらず戦後、開戦時の外相であったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。
 
剛直で責任感が強く、平和主義者である一方で現実的な視野を併せ持った合理主義者でしたが、正念場において内外情勢の急転に巻き込まれて苦慮するケースが多かったといわます。
〜以上、フリー百科事典『ウィキペディア』より
【参考図書】
・司馬遼太郎・著『故郷忘じがたく候』(文春文庫、2004年10月新装版)
        
           
 故郷忘じがたく候 〜 虎と庭の木  ⇒ 薩摩焼のふるさと〜美山
     
         
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