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薩摩焼のふるさと〜美山 − 鹿児島県日置市東市来町
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薩摩焼のふるさと美山は、鹿児島から西へ約20kmのところにあります。さらに西へ2〜3km進むと東シナ海にでます。豊臣秀吉の慶長の役に出陣した第17代薩摩藩主島津義弘公は、慶長3年(1598年)に朝鮮から約80名の陶工たちを連れ帰り、そのうち40余名が鹿児島の串木野島平に着船しました。慶長8年(1603)串木野から伊集院郷苗代川(現在の美山)に移住し、藩の保護の下で開窯をしたのが薩摩焼の始まりです。薩摩藩は陶工たちを優遇し士文に取り立てます。明治維新までの二百数十年間、薩摩藩の庇護を受けながら、李朝の流れに連なる陶技が磨き続けられました。優雅で気品に満ちた白薩摩は、藩主の御用品として焼かれ、黒薩摩は庶民の中で「くろもん」と呼ばれて愛用されました。慶応3(1867)年のパリ万博に、美山で焼かれた白薩摩「錦手大花瓶」が出品され絶賛されると、薩摩焼は「サツマウエアー」として一躍世界的に知られるようになりました。美山には現在、12の窯元があり、薩摩焼約400年の歴史が今なお息づいています。そんな美山の雰囲気の一端をアップロードしました。                                                (旅した日 2004年12月)
美山の佇まい
かつて『桜馬場』と呼ばれた美山のメインストリートは、昔からの道路にしては幅広です(写真上左)。美山を訪れた故浜田庄司氏(柳宗悦を理論的指導者とする民芸運動に実践協力した陶芸家の一人)は、美山の印象を「村全体が名品の味」と言ったそうです。また、司馬遼太郎氏は、十四代沈壽官(ちんじゅかん)氏の半生を描いた小説『故郷忘じがたく候』で、「石で垣が組まれ、その上には植物が植わっていた。生垣はキンチクとよばれる矢竹のような細竹か、それとも犬槇(いぬまき)であり・・・」と書いています。
石垣と犬槇(イヌマキ)の有る屋敷(写真上左)。いたるところに竹林があって、清風抜ける落ち着いた陶郷の趣を漂よわせています(写真下左右)。写真上右と写真下右は、荒木陶窯。
沈寿官窯

慶長10年(1605)初代沈当吉が開釜して以来、約400年間、一子相伝で李朝陶芸の秘法を伝えてきた沈寿官窯。薩摩藩営焼き物所の主宰者であった第12代沈壽官は、オーストリア万国博に「大花瓶一対」を出品し、外国人の大きな賞賛を得ました。現在、15代沈壽官氏が伝統の窯を守り続けています。門は武家門です(写真上右)。写真下右の正面に見えるのが、「作品展示場」で作品を購入できます。その右手に一部見えている建物が、沈壽官家の歴代作品を展示した『収蔵庫』です。

沈寿官窯の工房(写真上左)。『獅子乗観世音像』(写真上右)、写真をクリックすると大きな画像を見れます。黒薩摩の「黒ぢょか」(写真下左)、焼酎6に対して水4を入れて弱火で人肌程の温度に温めます。お猪口に注いでじっくりと頂きます。
故浜田庄司氏に、「村全体が名品の味」と言わしめた竹林や犬槇の佇まいは、地元の人にとっては見慣れた風景です。ですから、ややもすれば美山の里に薩摩焼の400年のドラマと歴史があるなんて思いもよらないということになりかねません。しかし、沈寿官窯の『収蔵庫』に一歩足を踏み入れると、薩摩焼400年の歴史を思い知らされることになります。特に、サツマウェアーの名を不動のものにしたという12代沈壽官の作品は素晴らしいの一言です。著者の自宅から車で片道1時間も走れば美山に行けます。気の向いたとき、いつでも拝見できることは幸せなことです。写真上右と下右は、『収蔵庫』の側壁に陳列されている焼物。
【備考】
■東市来町観光 美山薩摩焼  窯元マップ

  → http://www.town.higashiichiki.kagoshima.jp/N_hp/sightseeing_Satsumayaki/index.htm
■『沈壽官窯公式ホームページ』のアドレスは、
  → http://www.chin-jukan.co.jp/
■沈寿官窯の『収蔵庫』の室内は、撮影禁止になっていますが、『沈壽官窯公式ホームページ』でコレクションを見れます。
  → http://www.chin-jukan.co.jp/col.html
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