|
入口に垂らされた浮世絵の暖簾 |
熊本藩の細川越中守などは一夜千金の金を落としたといわれています。またオランダ商館のフィッセンもここ若胡屋の酒席に列席したと日記に残しています。遊女たちは江戸の吉原や京都の島原と同じように高い教養もそなえていました。住吉神社造営のときに寄進した玉垣には、もろこし、みちのく、花むらさき、ひな巻、若桐など遊女の源氏名が刻まれています、この若胡屋には『おはぐろ』にまつわる遊女の悲しい物語があります。黒ずんだ壁の手形のあとは既に消えうせたが彼女たちのつれづれもみづくきの跡(筆跡、手跡)が二階の壁に残っていて、今に何かを語りかけているようです。豪壮な表造りの蓮子窓奥座敷の屋久杉の天井板、薩摩藩からもって来た桜島の溶岩を練り込んだ土塀、ヒョンの樹など、その昔の面影を今に残しています。境内に遊女「はなむらさき」の墓があります。
夏草や島に悲恋の遊女墓 蚊居
|
(現地案内板より) |
|
|
|
若胡屋(わかえびすや) |
ここは若胡屋という江戸時代の茶屋の跡です。御手洗は七里七島五里五島と呼ばれた広島県の島々の中でも古くから遊女の港として船人たちに広く知られ彼らの旅情を慰めてきたところです。北陸能登あたりから米を積んで瀬戸内海を航行する北前船(千石船)や四国・九州の諸大名の参勤交代の時の御座船をはじめオランダ商館員の江戸参府の途中、又は文芸人たちの来遊など数多くの船が寄港しました。享保〜宝暦(1716〜1763)の頃広島藩から免許をえた茶屋がこの町に当時四軒ありました。中でもこの若胡屋が一番大きく最盛期には百人以上の遊女をかかえていたといわれます。遊女の最高位である太夫(だゆう)のおいらん道中は三本ハマの黒塗下駄でべっ甲の三枚櫛や金銀のかんざし、刺しゅう入りのうちかけという豪華さで一対の箱提灯を先に禿(かむろ)がつきそっていたということです。 |
|
|
|
|
|
|