ひとり 〜ショートバージョン
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長崎龍馬通り− 長崎市
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幕末の風雲児として東奔西走し明治維新の原動力となった実践行動力の人坂本龍馬は、元治元(1864)年30歳のとき、幕臣・勝海舟に同行して初めて長崎にきます。風頭(かざがしら)公園内にある司馬遼太郎著「竜馬がゆく」文学碑には、船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、「長崎はわしの希望じゃ」と陸奥陽之助にいった、「やがては日本の回天の足場になる」ともいった、とあります。龍馬は、薩摩藩の援助を得て、日本初の商社といわれる『亀山社中』を設立します。亀山社中が、薩摩藩名義で武器や軍艦を購入して長州に貸し、長州からは米を薩摩に送くるギブ・アンド・テイク方式で当時仲の悪かった薩摩と長州両藩の同盟を成立させたのは有名な話しです。長崎市寺町通りの禅林寺と深崇寺にはさまれた路地から、亀山社中跡を経て風頭公園に至る石段の急な坂道は、坂本龍馬をはじめ幕末激動期の若き志士たちが登り下りした道で、『龍馬通り』と呼ばれています。その龍馬通りを歩いてみました。  (旅した日 2005年02月)
龍馬通り
龍馬通りは、古寺や墓地や民家に沿った急な石段の坂道です。中腹の亀山社中のそばの見晴らしの良い場所に、『龍馬のぶーつ像』のモニュメント(写真上左)があります。「日本で最初にぶーつをはいたといわれる男、坂本龍馬。当時土佐では、身分制度がきびしく、下級武士である郷士の家に生まれた龍馬は、ぞうりしかはけなかった。自由の地長崎に来て龍馬はぶーつをはいて大いに張り切った。」という、「亀山社中ば活かす会」の案内板があります。亀山社中創設130年記念事業として奉志によって建てられたモニュメントです。
亀山社中跡
「慶応元(1865)年5月に、坂本龍馬(1835〜1867)は、この地に、日本初の商社を設立し『亀山社中』と称しました。亀山社中の事業は、航海・海運・貿易などでした。慶応3(1867)年、亀山社中は、土佐藩直属の「海援隊」となり、坂本龍馬は隊長に任命されました。」と案内板にあります。龍馬通りの至るところに龍馬を詠んだ川柳がかけられています(写真下左)。
風頭(かざがしら)公園
♪凧(はた)揚げするなら金比羅、風頭山、帰りは一杯きげんで・・・・ぶらぶら〜」と「長崎ぶらぶら節」にも歌われた風頭山。龍馬通りの坂道を登りきると、風頭公園に至ります。長崎市内を一望する公園内には、全国の有志からの募金によって建立された「坂本龍馬の像」(写真上左)や「竜馬がゆく文学碑」(写真上右)があります。また、その近くには幕末に写真術の研究に尽力した上野彦馬(1838〜1904)の墓があり、上野彦馬は、幕末の長崎が生んだ我が国写真術の始祖であり、彦馬が写した坂本竜馬や桂小五郎などの写真は余りにも有名であります。幕末維新、動乱時代に職業写真家として苦難の道を開いた彦馬の生涯と偉大な業績が日本発展の基礎となって行きつづけています。と顕彰会の説明板があります。
長崎市内遠望
風頭公園からの長崎港や市街地の遠望。
 レポート ・龍馬と亀山社中
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