レポート | ・龍馬と亀山社中 |
− 龍馬と亀山社中 − |
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長崎市寺町通りの禅林寺と深崇寺にはさまれた路地から風頭(かざがしら)公園に至る石段の急な坂道は、坂本龍馬をはじめ幕末激動期の若き志士たちが登り下りした道で、「龍馬通り」と呼ばれています。その龍馬通りの中腹に、「亀山社中跡」があります。 幕末の風雲児として東奔西走し明治維新の原動力となった実践行動力の人・坂本龍馬は、天保6(1835)年、土佐藩の下級武士である郷士・坂本八平の次男として高知国に生まれました。25歳頃までに江戸の北辰一刀流の千葉道場や佐久間象山の下で剣術や砲学を学びます。 文久元(1861)年27歳のとき、土佐の武市半平太の結成した「土佐勤王党」に血盟しますが、武市と意見が合わず、翌年土佐勤王党と別れ脱藩し、千葉道場に身を寄せます。この頃、幕臣・勝海舟に弟子入りします。 文久3(1863)年に勝海舟の尽力で脱藩の罪が許され、勝海舟が設立した神戸海軍操練所の塾頭になったものの、土佐藩の帰国命令に従わず、再び脱藩の身となりました。 元治元(1864)年、龍馬30歳の年は、池田屋騒動や禁門の変で多くの同志を失った年でした。また、幕府による海舟の江戸召還によって神戸海軍操練所は閉鎖され、海舟は、長崎奉行所西役所の海軍伝習所の頭取として長崎に派遣され、約4年間に渡ってオランダ海軍士カッテンダイケ等の指導を受けることになります。 そのとき、勝海舟に同行して龍馬は初めて長崎を訪れます。司馬遼太郎著「竜馬がゆく」には、船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、「長崎はわしの希望じゃ」と陸奥陽之助にいった、「やがては日本の回天の足場になる」ともいった、とあります。 海舟の紹介で西郷隆盛と知り合うと、龍馬は薩摩藩の援助を得て、翌年慶応元(1865)年、31歳のとき日本初の商社といわれる「社中」を設立します。「社中」とは、「人の集まり」のことで「結社」を意味します。 社中は、当初現在の長崎市の繁華街、浜の町アーケードの入口付近にありましたが、のちに長崎市内の伊良林(いらばやし)にある亀山と呼ばれる場所に移ったため、「亀山社中」と呼ばれるようになりました。 亀山社中は、神戸海軍操練所閉鎖に伴い龍馬と行動をともにした、幕末激動期の若き志士たちで構成されていました。交易の仲介や物資の運搬等で利益を得ながら、海軍・航海の技術を習得することを目的としていましたが、最大の目的は、それらの活動を通じて、当時仲の悪かった薩摩藩と長州藩を和解させることでした。 薩摩藩名義で武器や軍艦を購入して長州に貸し、長州からは米を薩摩に送くるギブ・アンド・テイク方式で薩摩と長州両藩の同盟を成立させたのは有名な話しです。 しかし、慶応3(1867)年、亀山社中は財政的な破綻から、土佐藩の所属となり名前も「海援隊」と改称されます。龍馬は脱藩の罪を許され、隊士22人・水夫30数人の隊長に任ぜられ、その指揮をとります。海援隊は土佐藩の援助を受けましたが、基本的には独立していて、船会社と海軍を兼ねた組織であるばかりでなく、その中で航海術や政治学、語学などを学ぶ学校でもありました。 龍馬の海事と商事の活躍の下地は、生地の土佐の地で育まれたようです。父八平の後妻・伊与の実家である種崎の下田屋(川島家)は、土佐藩御船倉(造船所兼海運管理所)の御用商人で、手広く回漕業も営んでいました。龍馬は、そこへ頻繁に出入りして、海事と商事の実際を見聞していたと言われます。 慶応3(1867)年の10月13日、徳川慶喜はついに二条城で大政奉還を伝えます。そして、大政奉還から一ヶ月後の11月15日午後9時過ぎ、龍馬は京都近江屋二階で刺客の凶刃に倒れます。享年33歳でした。 龍馬の亡き後、海援隊はその求心力を失います。海援隊は、土佐藩士・後藤象二郎に引き継がれて土佐商会となり、土佐商会の主任であった岩崎弥太郎(1834〜1885年)がその後「九十九(つくも)商会」を経て、郵便汽船三菱会社(後の三菱財閥、日本郵船)へと発展させて行きます。 【備考】 ◆旅行記 ・長崎龍馬通り−長崎市 も併せてご覧下さい。 (→ http://washimo-web.jp/Trip/Kameyama/kameyama.htm) |
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2005.03.23 | ||||
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