♪想い川
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天璋院篤姫ゆかりの地 − 指宿市・鹿児島市
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鹿児島市から薩摩半島を錦江湾(鹿児島湾)岸沿いに、国道226号あるいはJR指宿枕崎線で50km南下すれば、砂むし温泉などで知られる、薩摩半島最南端の市、指宿市に着きます。その指宿市の入口にあたる一帯はかつての今和泉島津家の領地で『今和泉郷』と呼ばれていました。現在の今和泉小学校は、2008年NHK大河ドラマの主人公・天璋院篤姫(てんしょういん あつひめ)が幼年期に過ごしたといわれる今和泉島津家別邸(領主仮屋)があったところで、屋敷石垣や松林などが残されています。屋敷跡や当時をしのばせる町割の町並み、旧今和泉郷社である豊玉媛神社、今和泉島津家墓地など篤姫ゆかりの地と鹿児島市内の本邸と鶴丸城(鹿児島城)跡を訪ねました。    (旅した日 2008年01月)


今和泉(いまいずみ)
国道226沿いから見た今和泉の遠望(砂浜のある松林のところが屋敷跡)。この写真の真っ直ぐ遠方が指宿。
天璋院篤姫と今和泉家
今和泉家は、延享(えんきょう)元年(1744年)、薩摩藩第5代藩主島津継豊(つぐとよ)が弟の島津忠郷(たださと)に、長く絶えていた和泉家を再興させた家で、その領地は『今和泉郷』と呼ばれ、現在の岩本・小牧・新西方の一部・池田・仙田からなり、後に佐多や伊作、串良などの飛び地も加わって石高は一万五千石ありました。今和泉島津家は、重富(しげとみ)家・加治木(かじき)家・垂水(たるみず)家とともに、『一門家(いちもんけ)』と呼ばれる薩摩藩最高の家柄でした。一門家は、藩主の代役を勤めたり、参勤交代から帰る藩主を国境(くにざかい)まで迎えに行くなど、様々な役割を担っていました。また、藩主に同行して将軍と謁見(えっけん)することができたのも、この一門家だけでした。

今和泉島津家
第5代忠剛(ただたけ)の娘一子(かつこ)(愛称、於一(おかつ))は、嘉永6年(1853年)に第11代薩摩藩藩主島津斉彬(なりあきら)の養女になり、名を篤姫(あつひめ)に改めました。そして安政3年(1856)、第13代将軍徳川家定(いえさだ)に嫁ぎ、家定が亡くなった後は、天璋院(てんしょういん)と名乗り、幕末から明治の動乱の時期に、徳川家の存続に尽力しました。
今和泉島津家墓地上の土手からみた今和泉の遠望(左端が屋敷跡)。うっすら桜島が見えます。


今和泉島津家別邸
松林(隼人松原)
今和泉家の本邸は、現在の鹿児島市内の大龍小学校の隣りにあり、敷地は4600坪あったといわれますが、今和泉島津家初代島津忠郷(たださと)は、宝暦4年(1754年)に、現在の今和泉小学校の所に別邸(領主仮屋)を建てました。今は建物は残っておらず、小学校の海岸側に当時の石垣や松林(隼人松原)、校庭には井戸と市の指定文化財で、篤姫も使ったとされる手水鉢(ちょうずばち)が残されています。

松林(隼人松原)越しに眺める錦江湾の遠方にかすかに桜島が見えます(写真上)隼人松(写真左)は樹齢300年以上と言われています。

石垣
〜 現在でも昔の風情が残るこの今和泉別邸に篤姫は、18歳まで過ごしたといわれています。宮尾登美子さんの小説の中で『別邸は、本邸の間取りを写して表には城壁を囲い、老松を配していかめしく作られてあったが、裏座敷は海に面していて、とくに夏場が涼しかった。座敷から草履をはいて庭にで、石垣のあいだの段々を十ばかり下りると、そこはもう砂浜になっており、つい目の前には波が打寄せていて、子供の絶好の遊び場所であった。』と書かれています。 〜

※ 上の記事は、JR薩摩今和泉駅で販売している『魅力ある指宿まちづくり協議会』の観光パンフレット(¥200)から転載させてもらいました。


今は、その段々を上がったところに今和泉小学校の体育館があります(写真下)。


今和泉小学校(別邸跡)


手水鉢と井戸
今和泉島津家伝来の手水鉢
(指宿市指定文化財。平成6年3月2日指定。)


江戸中期、延享元年(西暦1744年)藩主島津継豊は、弟の忠郷に和泉家を今和泉家として再興させ、重富、加治木、垂水とともに一門四家と呼んで特別待遇を与えた。

今和泉島津家別館は今和泉郷岩本村におかた。ここ今和泉小学校が今和泉島津家の別館跡である
。別館の名残りをとどめているのは、海岸に面した石垣、隼人松原、手水鉢のみである。

この手水鉢は、
高さ93cm、水を入れる鉢の内径30cm、外径58cm、底の直径36cm、胴回りの最大210cmで均整のとれた形をしています。製作者名・製作年は不明となっている。指宿市教育委員会。

写真下は、校庭の一角に残る井戸跡。



町割の町並み


豊玉媛神社
豊玉媛神社
JR薩摩今和泉駅の北西約200mのところにある豊玉媛(とよたまひめ)神社(旧今和泉郷社)にまつられている神様は、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)で、通称デメジンサーと呼ばれています。

神社の棟札(むなふだ)には元禄8年(1695年)のものがあり、島津家第20代当主綱貴(つなたか)の無事と地元の繁栄を祈るために地元の人たちが
『主君を敬い、民を愛し、災害が起きないように』、『長生きして子孫に恵まれ、それぞれの願いが叶うように』という思いを込めて鳥居と仁王像を建てたと伝えられています。また、今和泉家の領主の棟札も残っています。その他、境内には煙草神社があります。
菜の花
指宿といえば菜の花。毎年1月、菜の花の咲く指宿路を走る『いぶすき菜の花マラソン』は今年(2008年)で27回を数えます。豊玉媛神社に向う沿道の畑にも菜の花が咲いていました。


往時の面影
光台寺参道跡
光台寺が創建されたのは、今和泉島津家が成立してしばらくした宝暦7年(1757年)のことです。菩提寺として今和泉島津家では代々大切にしていましたが、明治2年の廃仏毀釈によって壊されました。当時の様子を今に伝えるのは、参道横に放置された五輪塔の一部(写真左)のみです 。

また、昭和56年(1981年)に近くの石垣を修復した際、仁王像が壊された状態で石垣の礎石として使われているのが発見されました。

田の神様
田の神像は、旧薩摩藩領内だけに見られ、1500体以上見られます。農耕や豊作の神様として、江戸時代の中頃の18世紀の初めから、農民や下級武士たちによって作られました。形は実に変化に富んでいますが、初めの頃は仏像や神像の形でした。その後は次第に持ち物や表情も農民の姿の物が作られるようになりました。

この田の神(写真右)は、小さな台石に乗せられていて、
髪を垂らしたような大きなシキをかぶっています。長袖の上着で、ヒダの深い長袴(はかま)をはいており、両手で大きなメシゲを持っています。風呂敷のような大きなツトを背負い、そのひもが前に刻まれています。

田の神は、鹿児島弁で『タノカンサァ』と呼ばれ、決して崇(たた)ることのない神様で、豊作の神様として庶民に親しまれてきました。この像が建てられた江戸時代には、山裾(すそ)の豊富な湧き水を使った水田で米が作られていました。


今和泉島津家墓地
今和泉島津家墓地
今和泉島津家の墓地は、JR指宿枕崎線を越えた、屋敷跡とは反対の山側にあり、今和泉島津家初代の忠郷(さださと)から6代目までの代々の当主やその家族合わせて13人の墓があります。天璋院篤姫の父である5代当主・忠剛(ただたけ)や兄の6代当主・忠冬(ただふゆ)もこの墓地に葬られました。天璋院篤姫の墓は、東京上野東叡山寛永寺(天台宗)墓地に将軍家定と並んで建っています。今和泉島津家は、藩最高の家柄であり、薩摩藩主である島津家を支える家として江戸時代に重要な役割を果たしました。下の写真の手前が父・忠剛、奥が兄・忠冬の墓です。


薩摩今和泉駅
NHK大河ドラマ『篤姫』
JR指宿枕崎線の薩摩今泉駅(写真上下)には、観光ガイドの事務局が開設され、待合室にはNHK大河ドラマ『篤姫』のポスター(写真右)が貼られていました。薩摩関係の主な配役は次の通りです。

 ・篤姫 宮崎あおい
 ・肝付尚五郎(小松帯刀) 瑛太
 ・西郷吉之助(隆盛) 小澤征悦、
 ・大久保正助(利通) 原田泰造
 ・島津忠剛(篤姫の実父) 長塚京三
 ・お幸(篤姫の生母) 樋口可南子
 ・島津忠敬(篤姫の三兄) 岡田義徳
 ・島津斉彬 高橋英樹
 ・調所広郷 平幹二朗
 ・島津久光 山口祐一郎

篤姫観光ガイド
篤姫ゆかりの地・指宿市今和泉地区の史跡などを案内する観光ガイドの事務局がJR薩摩今和泉駅内に完成し、別邸跡などを巡る5つのコースを準備し、平成21年3月31日まで実施されます。無料ですが、原則として篤姫ガイドブック(1部200円)の購入が必要です。申し込みは、前日の午前9時〜午後4時半に『魅力ある指宿まちづくり協議会事務局』(同市観光協会内、TEL 0993-22-3257)まで。


今和泉島津家本邸跡(鹿児島市)
今和泉島津家の本邸は鶴丸城(鹿児島城)の東北に位置する大龍寺(現大龍小学校)の西隣りにあり、篤姫はここで生まれました。現在、屋敷自体は残っていませんが、当時をしのばせる石垣が通りに面して残っています(写真上)。


鶴丸城
篤姫は嘉永6年(1853年)、島津斉彬の実子として2ヶ月余りをこの鶴丸城(鹿児島城)で過ごした後、京都、江戸へ向って出発しました。
 レポート ・天璋院篤姫
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