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旅行記  平松神社(心岳寺跡) − 鹿児島市吉野町 2021.11
 
平松神社(心岳寺跡)
日豊線越しに見る鳥居
平松神社(心岳寺跡) 第15代守護職・島津貴久のいわゆる島津四兄弟の三男・島津歳久(としひさ)は、秀吉の九州征伐に際して秀吉の駕籠に矢を射かけ、死ぬまで秀吉に徹底して反抗しました。ために、秀吉の厳命によって長兄・島津義久の追討を受け、竜ヶ水(現在の平松神社の地)で自害します。享年56歳でした。
仁王像と史跡標識
文慶長3年(1598年)8月に秀吉が亡くなると、義久は翌慶長4年(1599年)の春、歳久の最期の地に菩提寺として心岳寺(しんがくじ)を建立しました。寺号は歳久の戒名の一部を取って付けられたものです。心岳寺は福昌寺(現在の鹿児島市池之上町にあった島津家の菩提寺)の末寺として抱巌竜強和尚により開基された曹洞宗の寺でしたが、廃仏毀釈により明治3年(1870年)に寺号を廃して神社へ改め、平松神社となって現在に至っています(2)
国務大臣金丸三郎氏書による「島津金吾歳久公四百年祭記念碑」
歳久の人気は江戸時代を通じて絶大なもので、島津忠良菩提寺の加世田日新寺(現在の南さつま市)、島津義弘菩提寺の妙円寺(現在の日置市)と共に心岳寺に詣でることが大流行しました。それぞれの命日にそれぞれの菩提寺に詣でるこの習慣は『鹿児島三大詣り』と呼ばれました。
参道階段
特に江戸時代、郷中(ごじゅう)教育による青少年育成で挙行された三大詣りは『お参り』というよりは『軍事教練』に近いものであったと言われます。歳久が『戦の神』として崇拝されたこともあり、戦後まもなくまで歳久の命日には平松神社に参拝者が絶えなかったそうですが、その後は急速に衰え、現在は妙円寺詣りだけが行われています(3)
参道階段脇の小さな石仏
心岳寺仮乗降場 明治41年(1908年)、当時『鹿児島三大詣り』の一つとして平松神社で行われる『心岳寺詣り』へのアクセス目的で、日本国有鉄道(国鉄)日豊本線に詣りの期間(8月、9月)限定営業の仮乗降場が設置されました。一時期は海水浴客向けに営業されたこともありましたが、戦後心岳寺詣りが衰退すると当駅の利用客も激減したため、昭和42年(1967年)に廃駅となりました(4)
参道階段を上がりきって見える境内風景
西郷隆盛と心岳寺 安政5年(1858年)の安政の大獄で追いつめられた西郷隆盛は、僧月照と一緒に、錦江湾で小舟から身を投げますが、そのとき西郷は月照に歳久の話しをし、自害の地に建てられた心岳寺の方に一拝を求めた上で飛び込んだといわれます。
境内より錦江湾を望む風景
島津金吾歳久公四百年祭 平成4年(1992年)8月に『島津金吾歳久公四百年祭』が行われました。『島津金吾歳久公四百年祭志』(平成7年11月、平松神社四百年祭実行委員会発行)に以下のようにあります。 〜 平成四年は、島津金吾歳久が天正二十年(一五九二年)関白豊臣秀吉の厳命により、自刃して満四百年に当たります。
平松神社社殿
そこで、平成初年の夏頃から鹿児島市所在南洲神社、西郷南洲顕彰館、各健児学舎、敬天舎、古武道関係者、島津家関係者の間で話し合いがなされ、平成四年八月十八日に「島津金吾歳久公四百年祭」を挙行することを決定しました。〜 鳥居脇に、国務大臣金丸三郎氏書による『島津金吾歳久公四百年祭記念碑』が建てられています。
境内と社殿
平松神社 DATA
所在地: 鹿児島県鹿児島市吉野町1069
主祭神: 島津歳久とその殉死者27名、社格等: 旧郷社、創建: 明治3年(1870年)
例祭: 7月10日
歳久公辞世の歌碑と稲荷神社、その右に島津歳久墓地
島津歳久公辞世歌
『この世を去った歳久の魂がどこへ行ったかと問われたら、思い残すことなく、雲のかなたのどこか分からないところに消えて行ったと言ってください。』 ※ 晴蓑(せいさ)とは島津歳久公の出家名です。
 
島津歳久墓地 
歳久公の遺言状(1) 『自分一人が腹を切ればそれですむと思ったので、自分の家臣たちにも再々そのように言ったけれど、彼らは全く承知してくれない。これも仕方のないことだ。家臣たちの立場としては一戦も交えず、殿様だけが腹を切ってそれで終わったということではすまないのだろう。そういうわけで、一応戦いはするが、これは守護家の義久公に向かって矢を放つのではなく、君臣武雄の本分をもって、暫時の軍を励むものであう。そういうわけだから自分の家来の人たちを謀反人扱いにはしないで欲しい。』
奥に殉職者27名の墓石
大崎観音
(十一面観音菩薩座像)
大崎観音(十一面観音菩薩坐像)
大崎観音 境内に十一面観音菩薩様(石像)が鎮座しています。今から約300年前の宝永七年(1710年)に心岳寺の僧侶であった萬年和尚が建立したものだと言われます。当時は、現在の平松神社下の海岸沿いに道がなく、神社の南の方にある大崎ノ鼻と重富(現在の姶良市)間は船を使って行き来していました。
宝永七年(1710年)と刻銘があります
この錦江湾の航路では海難事故が多かったそうです。そこで、事故で亡くなった人の供養と航行の安全を祈願して建立されたのがこの大崎観音です。かつては、鹿児島、帖佐、重富、加治木、国分、福山の人々が1年ごとに順に寺僧を請って供養をしていたそうです(2)
うっすら顔の形が残っています
石造龍神吐手水舎
石造の龍が水を吐き出している手舎鉢
龍神が水を吐く手水舎 神社の手水舎(ちょうずや、てみずしゃなど)は、水で身を清める役割がありますが、龍がいるのをよく見かけます。水はすべての生物の命の源であり、また邪気を祓う神聖なものとされきました。手水舎の水は、龍神様から出る水ということで、さらに神聖になります。
 リアルで歯が印象的な龍神
 
 景勝の地
境内から桜島を望む風景(坂道は旧参道)
三国名勝図会(江戸時代後期に薩摩藩が編纂した薩摩国、大隅国、及び日向国の一部を含む領内の地誌や名所を記した文書)に『実に塵外の幽境にて、風景佳勝なり』とあるように、平松神社は景勝の地に佇んでいます。宮司さんのおっしゃる『結構リピータの多い神社なんですよ』というお言葉が分かる気がします。神社前の錦江湾では、回遊するイルカの群れが見れるそうです。
編集後記
  10数年ぶりの平松神社参詣でした。今回は、先日(2021年10月29日)わが自治会(船木区公民館)の高齢者サロンの研修・視察として実施した『金吾さぁ(島津歳久)と秀吉ゆかりの史跡巡り』で、平松神社宮司の島津孝久さんにご講演(企画および会場:中津川公民館)を頂いたお礼の挨拶を兼ねての参詣でした。
 
錦江湾を見下ろす景勝の地に佇む社の境内で歳久公の遺徳を偲べば、心洗われる心境になり、この場を去りがたく思われてきます。神前で孝久さんにお祓いをして頂き、帰りには孝久さん署名入りの直筆の御朱印とお守り、そして当日の早朝4時のお清めに使われた甑島の海洋深層水塩を頂きました。皆さまも、機会がお有りの時、平松神社を是非ご参詣下さい。お薦めです。
 
【参考文献・サイト】
(1)島津金吾歳久公四百年祭志』(平成7年11月、平松神社四百年祭実行委員会発行)
(2)平松神社 (鹿児島市) - Wikipedia
(3)心岳寺 - Wikipedia
(4)心岳寺仮乗降場 - Wikipedia
 
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