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旅行記 ・宮本武蔵初決闘の地 − 兵庫県佐用郡佐用町 2018.09
宮本武蔵初決闘の地
宮本武蔵初決闘の地
宮本武蔵・著『五輪書』によれば、武蔵は60余回の勝負を行いすべてに勝利したそうです。時は慶長元年(1596年)、兵庫県佐用郡佐用町の因幡街道沿いに栄えた宿場町平福の金倉橋のたもとで、剣豪武蔵は、13歳のとき新当流の達人有馬喜兵衛に初勝負をいどみ一刀のもとに倒したと言われています。平福は赤茶色の土蔵と川屋敷が建ち並ぶ『川端風景』で有名。その川端風景の近くに五輪書序文の一節の碑があります。
五輪書序文一節の碑
宮本武蔵初決闘の地 剣豪武蔵は、天正12年(1584年)に母・於政(おまさ)と死別、その後、父・無二斎が、利神城主・別所林治(べっしょしげはる)の娘よし子を後妻に迎えたので、武蔵はこの義母に育てられた。武蔵7歳の時、父が死去、義母は武蔵を残し平福に帰り、田住政久の後妻となった。
有馬喜兵衛(ありまきへえ)の高札
武蔵は、義母の後を追い、その叔父正蓮庵の道林坊にあずけられ、薫陶を受け、道林坊の弟・長九郎に武芸を学んだ。武蔵13歳の時、『何人なりとも望みしだいに手合せいたすべし。われこそ日下無双兵法者なる』という、新当流の達人。有馬喜兵衛(ありまきへえ)の高札を見て、ここ金倉橋のたもとで初勝負をいどみ、一刀のもとに倒したといわれる。(現地説明板より転載)
金倉の六地蔵
金倉の六地蔵 ここ金倉橋西の一帯は、平福町並みの南端に位置し松原と呼ばれており、江戸時代、平福藩刑場跡として伝えられているところから、この六地蔵は、その供養のために建てられたと考えることができる。この路傍に立つ六地蔵は、所々欠けてはいるが、気品のある美しさを漂わせる丸彫りの立像別石地蔵である。同所に元禄9年(1696年)に建てられた南無阿弥陀仏の念仏碑があることから、同時期のものと想像される。(現地説明板より転載)。た南無阿弥陀仏の念仏碑があることから、同時期のものと想像される。
   平福 − 兵庫県佐用郡佐用町
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