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旅行記 ・平福 − 兵庫県佐用郡佐用町 2018.09
 ひらふく
平福
天神橋と川端風景(川上より見る)
平福 平福は兵庫県佐用郡佐用町に属し、しばしば時代劇のロケ地にもなっている赤茶色の土蔵と川屋敷が建ち並ぶ『川端風景』で有名な旧宿場町・在郷町。秋から冬の朝霧の名所としても知られる。室町時代は赤松氏の拠点で、江戸時代初期に築かれた利神城(りかんじょう)の城下町を起源とする。
川端風景
一国一城令による利神城廃城のため城下町としての歴史は短かったが、陣屋や鳥取藩本陣が置かれる因幡街道最大の宿場町として発展した。また高瀬舟が坂越から千種川を遡って支流の佐用川の当地へ海産物などを運び入れたことで商業が隆盛、その1.2kmの区域の300戸余りの家の約8割に屋号がつく商人の町となった。
瓜生原家
昭和初期まで出雲街道・因幡街道および佐用の中心として繁栄していたが、鉄道が敷設されなかったため衰退しその地位を失った(1994年にようやく智頭急行(ちずきゅうこう、兵庫県赤穂郡上郡町と鳥取県八頭郡智頭町間を走る第三セクター方式の路線))が開通し平福駅が設置された)。
瓜生原家
往時の面影を伝える旧街道沿いにある連子窓と千本格子を持つ古い家並みと水運で賑わった佐用川沿いの石垣上の川座敷と土蔵群は、1983年に制定された佐用町歴史的環境保存条例の保存区域の指定を受けている。(以上、平福 - Wikipedia より転載)。
天神橋と川端風景(川下より見る)
川面に映る平福の町屋群 平福(ひらふく)のまちなみは、慶長5年(1600年)姫路城の支城として利神城(りかんじょう)が改修され、その西麓に居館(きょかん)を築き、佐用川(さようがわ)を挟んで城下町が整備されたのが始まりと考えられます。
川端風景
寛永8年(1631年)に平福藩が廃されたのちには因幡街道(いなばかいどう、現在の兵庫県姫路市を始点として、現在の鳥取県鳥取市に至る路線)の宿場町として発展し、街道一の宿場と称されました。普通『まちなみ』と言うと、道路に面した家並みが思い浮かばれます。
平福駅(智頭急行)
しかし、平福では表通りだけではなく背後の佐用川に沿った石垣や建物群に特徴があり、いわば裏通りの家並みで知られています。街道の東側に佐用川が並行して流れ、河川護岸の石垣の上に土蔵や川面を眺めることのできる川座敷などの建物が連続的に並んでいます。
米平福駅(智頭急行)
各屋敷の中庭からは川へ直接下りるための石段があり、石垣中に川門と呼ばれる板戸が付けられているのが景観のアクセントになっています。美しい川端風景からは、独特の建築風景と川に接した生活と工夫がうがかえます。佐用川の護岸は左岸がやや低く洪水時には遊水地となりました。
平福駅(智頭急行)
それによって右岸側では浸水が起こらないように工夫され、この川門も内開きになって石段部が遊水地として機能したと言われます。平福では昭和48年(1973年)ごろ護岸工事のため、歴史的な石垣の多くはコンクリートなどに変わっていきました。
因幡街道(いなばかいどう)
しかし、この対岸のあたりは治水上安全が保証できないと言われながらも、保存運動のおかげで、低水護岸を除き古い石垣が残されました。今日、平福を代表する景観として価値が認められ、ここに連続する3軒の住宅が兵庫県景観形成重要建物に指定(平成18年4月1日)されています。
平福陣屋門
中央の瓜生原(うりゅうはら)家は兵庫県登録文化財(平成26年3月6日)のもなっており、代々鋳物業を営み、屋号を吹屋と称しました。鋳物工場は吹屋小路を通って川を渡った左岸にあったといい、明治期まで続いていました。発掘調査では廃棄された鋳型片が出土しています。(以上、現地の案内板より転載)
道の駅『宿場町ひらふく』
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