旅行記  ・花尾神社 − 鹿児島市郡山町   



源頼朝の寵愛(ちょうあい)を受けて身ごもった丹後局(たんごのつぼね)は、頼朝の正妻・北条政子の逆鱗(げきりん)に触れ、政子に追放されます。西国へ下る途中、摂津国住吉の住吉神社(現在の大阪市の住吉大社)の境内で男子を出産します。雨の降る夜更けのことで、狐が火を灯し無事に出産を終えたと伝えられています。その子は、三郎と名付けられ、母・丹後局の再嫁先である惟宗広言(これむねひろこと)のもとで養育されました。七歳のとき、父頼朝と鎌倉で対面し、元服して惟宗忠久(これむねただひさ)と名乗ります。島津氏の正史といもいうべき『島津氏正統系図』などによれば、住吉神社の境内で狐火に照らされながら出生したこの男子が、島津家初代当主・島津忠久だとされています。源頼朝や丹後局を祀(まつ)る花尾神社が鹿児島市郡山(こおりやま)町にあります。歴史のロマン漂う花尾神社を訪れました。
 ◆レポート『丹後局ものがたり』−と併せてご覧下さい。         (旅した日 2003年12月)



花尾神社(県指定・有形文化財)
初冬の花尾神社は、鬱蒼(うっそう)とした老杉の木立に囲まれて静かに佇(たたず)んでいました。
さつま日光の雰囲気

花尾神社
花尾神社は、薩摩藩祖・島津忠久公が薩摩・大隅・日向三州の守護職(しき)に任ぜられ下向(げこう)したおり、建保6年(1218年)
源頼朝公の尊像を花尾山の麓に安置したのが創建の時と言われています。


忠久公は、母の丹後局と養父惟宗広言(これむねひろのり)を薩摩に迎え、広言を市来(いちき)の地頭職に任じ、丹後局に満家院(みつえいん)の厚地村と東俣村を与えたということです。丹後局は、安貞元年(1227年)に亡くなり、遺言によってこの地に葬られたそうです。


現在の社殿は、正徳3年(1713年)の建造で、別名『さつま日光』と呼ばれています。極彩色の彫刻や装飾に「日光東照宮」の雰囲気が伺われます。


宝物

丹後の局の宝剣 1振、御鏡 3面
源頼朝公御笏(おしゃく)
      御直筆 2福、御髪毛入れ
花尾大権現廟記、その他数点




※満家院(みつえいん)とは、現在の郡山(こおりやま)のことです。



島津雨と稲荷大明神
島津雨
鹿児島では、出立や祝い事、神事の日などに降る雨を「島津雨」といい縁起の良いものとしています。


稲荷大明神
また、島津氏は稲荷大明神を氏神としています。これらは、丹後局が雨の降る夜更けに住吉神社の境内で狐の火を借りて無事に島津忠久を出産したことに由来しています。


花尾神社の境内の杉林には島津家代々の守護神『稲荷大明神』『春日大明神』を祀(まつ)る祠(ほこら)があります。


丹後局の墓と御苔石(おこけいし)
丹後局の墓(多宝塔)
丹後局(たんごのつぼね)の墓(多宝塔)には、丸に十の字のマークや安貞元年(1227年)の刻印があり、よく整った多宝塔です。おそらく近世(江戸時代)に建てられたものと思われます。


御苔石(おこけいし)
多宝塔の右下に『御苔石』と言われ、昔から安産・子授のお守りに表面が削り取られた石塔があります(写真の右側に見える石塔)。これがもともとの丹後局の墓塔ではないかと推量されています。


丹後局の墓塔を安産・子授のお守りとするのは、大阪市住吉大社の『誕生石』に通じるものがあります。


なお、花尾神社境内の入口には、
『丹後局荼毘(だび)所跡』もあります。


【備考】
本ページの説明文は、花尾神社の境内にある案内板を参考にし、案内板の説明文を一部引用しました。


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