コラム | ・5月5日(端午の節句)の由来 |
− 5月5日(端午の節句)の由来 −
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§1 屈原(くつげん) 屈原(紀元前340年〜紀元前278年頃)は、中国戦国時代の楚(そ)の政治家、詩人。屈氏は楚の公族系でも最高の名門の1つであった。家柄に加えて博聞強記で詩文にも優れていたため、楚の王・懐王(かいおう)の信任が厚く、賓客を応接する副宰相となった。 当時の楚は、西の秦といかに向き合っていくかが主要な外交問題であり、秦と同盟することで安泰を得ようとする親秦派と、東の斉と同盟することで秦に対抗しようとする親斉派とに、臣下は二分されていた。 親斉派の筆頭であった屈原は、政治能力は群を抜いていたが非常に剛直な性格のために同僚から嫉妬されて讒言(ざんげん)を受け、王の傍から遠ざけられると同時に、国内世論は親秦派に傾いた。 屈原は秦は信用ならないと懐王を必死に説いたが受け入れられず、秦の罠に引っかかり楚軍は大敗した。その後、秦は懐王に縁談を持ちかけ秦に来るように申し入れた。屈原は秦は信用がならないと諫めたが、懐王は親秦派に勧められて秦に行き、秦に監禁されてしまった。 懐王が捕らえられた楚では、懐王の子・頃襄王(けいじょうおう)を王に立てた。君主を補佐する最高位の官吏である令尹に、屈原が嫌いぬいた子蘭が着任すると、屈原は追われて江南へ左遷された。その後、秦により楚の首都が陥落すると、屈原は楚の将来に絶望して、5月5日に石を抱いて、汨羅江(べきらこう)で入水自殺した。 のちに5月5日の命日には、屈原の無念を鎮めるため、人々は楝樹(センダン)の葉に米の飯を五色の糸で縛って、川に投げ込むようになった。これが「ちまき(粽)」の由来といわれる。また、伝統的な競艇競技であるドラゴンボート(龍船)は「入水した屈原を救出しようと民衆が、先を争って船を出した」という故事が由来であると伝えられている。 |
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