| レポート | ・丹後局(たんごのつぼね)ものがたり | ![]() |
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| − 丹後局(たんごのつぼね)ものがたり − |
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ご承知の通り、源頼朝(1147〜1199年)は、武士による初めての政権を鎌倉に開いた鎌倉幕府初代将軍ですが、平安時代の末期、京都で起きた平治の乱(1159年)に父・義朝とともに敗れ、伊豆で約20年におよぶ流人(るにん)生活を送ります。その流人時代に知り合って結婚したのが伊豆の土豪・北条時政の娘・北条政子(1157〜1225)です。頼朝は、その後、持ち直して平家を滅ぼし、1192年に鎌倉幕府を樹立します。 しかし、頼朝が将軍の座にあったのはわずか7年間でした。1199年に落馬がもとで亡くなってしまうのです。その後の源氏の運命は悲惨です。政子との間に生まれた頼家・実朝は将軍になったものの政治から遠ざけられ非業の死を遂げます。その後の政治を継いだのは、政子とその一族の北条氏でした。 比企尼(ひきのあま) 頼朝が生まれると、父・源義朝に使えてきた、武蔵国比企(ひき)郡(現在の埼玉県比企郡)の領主・比企掃部允が頼朝の乳人(めのと)に選ばれます。そして、伊豆流人時代の頼朝を扶助したのが比企掃部允の妻で頼朝の乳母(うば)比企尼(ひきのあま)でした。常に頼朝をかばって20年間仕送りを続け保護してきたと言われています。 比企尼の養子に企能員(ひきよしかず)という人がいました。その女(むすめ)は、頼家の寵愛(ちょうあい)を受け、若狭局(わかさのつぼね)と称し、一幡(いちまん)という子供を生みました。 しかし、頼家が病で倒れると、母親でもあり、頼朝の妻でもある北条政子が頼家の権力をニ分して、頼家の弟千幡(せんまん)(のちの実朝)に渡そうとしました。このことに能員が怒り、ひそかに北条時政を滅ぼそうと計画しましたが、逆に北条方に覚られ、比企一族は、この能員の乱で滅ぼされてしまいました。 丹後局(たんごのつぼね) 比企掃部允と比企尼の子で、比企能員の妹が丹後局(たんごのつぼね)です。丹後局は、源頼朝の寵愛(ちょうあい)を受け、身ごもりますが、頼朝の妻・政子の逆鱗(げきりん)に触れ、政子に追放されます。 西国へ下る途中、摂津国住吉の住吉神社(現在の大阪市の住吉大社)の境内で男子を出産します。雨の降る夜更けのことで、狐が火を灯し無事に出産を終えたと伝えられています。その子は、三郎と名付けられ、母・丹後局の再嫁先である惟宗広言(これむねひろこと)のもとで養育されました。七歳のとき、父頼朝と鎌倉で対面し、元服に際して、畠山重忠より一字を得て惟宗忠久(これむねただひさ)と名乗ります。 各地に、『丹後局(たんごのつぼね)』にまつわる伝説が残されています。 ◆『誕生石』(大阪市住吉大社) → http://www.sumiyoshitaisha.net/place/meisyo.html 丹後局が出産した場所として伝えられ、今でも安産を祈る人々の参拝が絶えません。 ◆『小野小町伝説の残る町』(神奈川県厚木市観光協会) → http://www.atsugi-kankou.net/leisure/history/ono.html 丹後局が、政子の怒りにふれて由比が浜で処刑されようとしたときに、畠山重忠にかくまわれて、祈願に参拝したと伝えられる神社。 ◆『丹後の局供養塔(たんごのつぼねくようとう)』(横浜市戸塚区) → http://www.city.yokohama.jp/me/totsuka/kids/school/kamiyabe/walk/walk07.html 横浜市戸塚区に丹後局の供養塔があるそうです。 ◆『丹後局(たんごのつぼね)伝説の謎』(横浜市戸塚区上矢部町) → http://www.city.yokohama.jp/me/totsuka/tmtnl/023.html 政子に鎌倉を追われた身重の丹後局が上矢部付近で産気づき、狐火を頼りに男子を出産、その子は成長して島津三郎と名乗り、九州の大名となったという伝説が戸塚にもあるそうです。 ◆『愛甲三郎季隆居館跡』(神奈川県厚木市愛甲) → http://www2u.biglobe.ne.jp/~ture/aikoukyokannkanagawa.htm 身ごもった丹後局をかくまったことから、頼朝の妻政子の逆鱗(げきりん)に触れ、居館が焼き打ちに遭ったと言い伝えられています。 島津忠久(しまづただひさ) 島津氏の正史ともいうべき『島津氏正統系図』や『島津国史』は、島津家初代当主・島津忠久(1179〜1227年)の父を頼朝、母を丹後局としています。すなわち、住吉神社で、狐火に照らされながら出生した惟宗忠久(これむねただひさ)こそが島津家初代当主・島津忠久とされています。 江戸時代には頼朝の墓の前に忠久の墓が作られ、丹後局の墓と丹後局を祀る花尾神社が薩摩国郡山郷(現在の鹿児島市郡山町)にあり、また、住吉大社には忠久の誕生石があります。 忠久は比企能員(ひきよしかず)の乱に連座したとして、日向・大隅・薩摩のすべての権限を停止され、その2年後に、再び薩摩国守護織と島津荘薩摩方の地頭織に任じられています。従って、源頼朝や比企(ひき)氏と深い関係にあったことが伺われます。 (※ 下記のサイトなどを参考にすると、源頼朝の落胤(らくいん)説は、現在では伝説とされ、惟宗広言の子であったのではないかというのが通説のようです。しかし、これも確たる材料がありません。確かなのは、惟宗氏の出身だったと言うことのようです。) 【参考】 『薩摩島津氏-出自-』 → http://www2.harimaya.com/simazu/html/sm_roots.html 『薩摩島津氏-家系-』 → http://www2.harimaya.com/simazu/html/sm_kakei.html (いずれも、ホームページ『薩摩島津氏』 → http://www2.harimaya.com/simazu/index.html から) 島津雨と稲荷大明神 鹿児島では、出立や祝い事、神事の日などに降る雨を「島津雨」といい縁起の良いものとしています。また、島津氏は稲荷大明神を氏神としています。これらは、丹後局が雨の降る夜更けに住吉神社の境内で狐の火を借りて無事に島津忠久を出産したことに由来しています。 花尾神社 島津忠久公が薩摩・大隅・日向三州の守護職(しき)に任ぜられ下向(げこう)したおり、建保6年(1218年)源頼朝公の尊像を花尾山の麓に安置したのを機に創建されたのが花尾神社(鹿児島市郡山町)です。別名『さつま日光』と呼ばれていて、極彩色の彫刻や装飾に「日光東照宮」の雰囲気が伺われます。 丹後局は、安貞元年(1227年)に亡くなり、遺言によってこの地に葬られたそうです。境内には、丹後局(たんごのつぼね)の墓(多宝塔)や昔から安産・子授のお守りとして参拝されてきた『御苔石(おこけいし)』などがあります。 ◆旅行記 ・花尾神社 − 鹿児島市郡山町 → http://washimo-web.jp/Trip/Hanao/Hanao.htm |
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| 2004.01.21 | ||||
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