♪アヴェ・マリア(カッチーニ)
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大乗寺跡と日置南洲窯− 鹿児島県日置市
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大乗寺は、第15代守護職・島津貴久公の夫人雪窓(ゆきまど)によって、日置市日吉町に建立されたもので、開山は一岳等忍和尚。文禄4年(1595年)、日置島津家3代島津常久は、初代歳久の冥福を祈るため、ここを日置島津家の菩提寺にしましたが、明治2年(1869年)の廃仏毀釈で廃寺となりました。日置南洲窯は、西郷隆盛の曽(ひ)孫にあたる西郷隆文さんが、母の出である日置島津家の菩醍寺の大乗寺跡に南洲翁を偲んで開設した窯。島津歳久公没後四百十五年目の命日に当たる日、歳久公ゆかりのさつま町中津川の『金吾様踊り活性化実行委員会』の方々の墓参に同行し大乗寺跡と日置南洲窯を訪ねました。(旅した日 2008年07月)


大乗寺跡
■島津歳久公の命日に墓参に訪れた『金吾様踊り活性化実行委員会』(さつま町中津川)の皆さん。中央(右より4人目)は、西郷隆盛の曽(ひ)孫で日置南洲窯主の西郷隆文さん■

           日置島津家

関白(天皇に代って政治を行う職)の宣下を受け、名実ともに天下人となった豊臣秀吉の軍を巧みに険相な山道に案内し、秀吉の駕籠に矢を射かけ、秀吉の九州征伐後も反骨を見せた名将・
島津歳久公(地元では金吾様(きんごさぁ)と呼ばれて親しまれてきました)でしたが、ついに秀吉の怒りを買い、秀吉の命によって兄・義久の追討を受け、竜ヶ水(鹿児島市吉野町)で自害。天正20年7月18日(1592年8月25日)、享年56歳でした。

歳久公自害の報に接した歳久夫人と歳久長女は、この処分を不服とし、
島津常久(薩州家出身の島津忠隣(ただちか)と歳久長女の子、つまり、歳久公の外孫)を擁して祁答院虎居城(現鹿児島県さつま町)に籠城しました。この事態を重く見た細川幽斎と島津義久は新納忠元を使者としてつかわすなど説得を行い、1ヶ月の籠城の末、常久成人の際に旧領を回復するとの条件で開城に至りました。常久成人後賜ったのが日置領9000石余でした。

そして、島津歳久公が日置島津家の初代当主とされ、歳久の長女の夫・忠隣が第2代、その子の常久が第3代当主とされました。

■最終的に歳久公は、胴体と首が一体でこの墓(写真左)に改葬されました。法名は、『心岳良空』(しんがくりょうく)■
     島津歳久公の墓

自害した歳久公の首は、肥前名護屋城の秀吉のもとに届けられ首実験をされ、さらに、京都の聚楽第(じゅらくだい)に送られて、一条戻橋にさらされたといわれます。ちょうどその時期に、歳久の従兄弟(いとこ)に当たる島津忠長が京都にいて、大徳寺の玉仲(ぎょくちゅう)和尚と図って、市来家家臣に盗みとらせ、京都浄福寺に埋葬、浄石塔が建てられました。一方、胴体は姶良の重富(史跡御石山のあるところ)で清められ、帖佐の総禅寺(豊州島津家の島津季久(すえひさ)の建立)に葬られました。
そして、歳久の末裔に当たる日置島津家14代島津久明(照国神社の4代宮司)が、明治5年(1872年)に京都にのぼり、その首を鹿児島に持ち帰り、一方帖佐の総禅寺に埋葬してあった胴体も掘り起こし、それと一体にして、平松神社(心岳寺)に改葬しました。二百数十年経って、ようやく首と胴体が一緒に埋葬されるに至ったわけですが、さらに、大正の終わりか昭和の初め頃に、この大乗寺跡に改葬されました。
■道路から大乗寺跡へ上る石段の傍らに立ててある『史跡大乗寺跡』の標識(写真左)。両側に仁王像が立つ階段を上り切った正面に歳久公の墓があります(写真下)。歳久公のほかに、4代から15代までの累代の墓があります。


島津歳久公供養祭

かつて歳久公の領地であった
さつま町中津川地区に伝わる『金吾様踊り』を数年前に復活させ、歳久公を祀る『大石神社』の境内で毎年9月に奉納しているのが『金吾様踊り活性化実行委員会』の皆さん方です。

四百十五回目の命日に当たる平成20年(2008年)7月18日、一行は先ず、歳久公の生誕の地である亀丸城跡(日置市吹上)を見学。その後、大乗寺跡境内にある祠堂に、持参した
メンバー手作りの有機野菜や小麦粉、そして焼酎などを供え、供養祭を行ないました。

焼酎は、ゆかりの『西郷庵』『島津十六代』、そして『金吾さあ』。『金吾さぁ』は、金吾様踊り活性化実行委員会が、地産の良い芋と旨い米を使って町内の焼酎メーカーに依頼して造った地域限定焼酎で、今年(2008年)も製造の取組みがなされます。

活性化実行委員会の皆さんは、歳久公の冥福とともに、地域活性化、五穀豊穣、日常の平穏などを祈願しました。



日置南洲窯
          日置南洲窯

西郷隆盛の曽(ひ)孫にあたる西郷隆文さんが、母の出である日置島津家の菩醍寺の大乗寺跡に南洲翁を偲んで、昭和53年(1978年)に開設。黒薩摩の本家として知られ、百年の歴史を持つ伝統的窯元・長太郎焼本窯に学ばれ習得された
黒薩摩の製作技術をベースに、『黒薩摩蛇蝎(だこつ)』『陶胎漆器』などの独特な作品を製作・販売されています。上の写真は、日置南州窯の敷地内にあるギャラリー。

〒899-3101 鹿児島県日置市日吉町日置5679
      TEL:099-292-3477
  西郷隆文さんのプロフィール
  
(さいごう・たかふみ)

昭和22年(1947年)

鹿児島生まれ。曽祖父は西郷隆盛氏。
昭和48年
企業組合長太郎焼窯元に入社。
昭和52年
日展初入選、以後12回日展に入選。
昭和53年
日置南洲窯を築窯し今日に至る。

日展会友、鹿児島県陶業協同組合理事長、鹿児島県美術協会会員審査員、鹿児島陶芸展招待作家

     黒薩摩蛇蝎花瓶(写真上)

薩摩焼の伝統技法のひとつである『蛇蝎釉(だかつゆう)』が施された黒薩摩。『蛇蝎(だかつ)』とは、蛇(へび)と蠍(さそり)という名のとおり、
立体的に浮き上がったうろこ状の紋様が特徴。その昔、ヒビの入った陶器を捨てずに、ヒビの部分に粘土を埋め、もう一度焼きなおして使っていました。鹿児島のシラス土壌にはガラス質が多く含まれているためヒビの部分が艶のある模様になるのだそうです。
      陶胎漆器(写真上)

漆器(しっき)の多くは、木材を素地としたものですが、
陶(磁)器を素地としたのが『陶胎漆器』(とうたいしっき)』です。陶胎漆器は一般に、漆(うるし)を塗ってしまったものを焼くことはないそうですが、西郷さんの作品は、漆を塗ったものを大胆にも再び窯入れして焼いてしまうのだそうです。そうすることによって、漆がやきものの表面の微細な孔に入り込み、やきものと一体化した仕上がりになるのだそうです。
■『薩摩叩き花器』(写真左)と日置南州窯の敷地内ギャラリー前の庭の風景(写真下)

 特集/金吾さあ  ・島津歳久の史跡を訪ねて

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