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坊之浜から見る坊津町坊(写真上)。番屋山には10基の風車が立っています。坊浦の奇岩・双剣石(写真下左)。坊之浜の港と民家(写真下右)。 |
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一乗院跡 |
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一乗院跡(県指定史跡)
敏達天皇12年(583年)百済の僧日羅が仏教弘布のため建立した寺です。その末寺は、薩摩大隅の国内47ヶ寺、坊津でも18ヶ寺あったといいます。日羅上人は、自ら仏像三体を刻み、上中下の三坊舎を設けてそこに安置した。坊津の名称はこれに由来します。
敏達、推古両帝の御願所となり長承2年(1133)には、鳥羽上皇から紀州根来寺の別院、西海の本寺として如意珠山一乗院の勅号を賜り勅願寺となりました。本院は歴代学徳すぐれた名僧知識が多く、42世の住持がつづき朝廷の御帰依はもとより、藩主島津氏にあっては、多くの寺領を寄進し保護につとめた。しかし、明治2年(1869)の廃仏毀釈の時、多くの宝物とともにむなしく崩壊散逸してしまい、今は仁王石像一対と歴代上人の墓が往時しのばせています。−現地案内板より− |
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一乗院跡は現在、坊泊小学校になっています。校庭のかたすみに立つ仁王石像(写真上左)は、室町時代に建立されたものと言われいます。高さ2m70cm、胴回り2m40cmの堂々たる風格は、寺の規模の壮大さが想像させます。小学校に保存されている上人墓(写真下右)は、南北朝時代から明治維新までの510余年間にわたる住職等の墓です。高さ60cm、横1.2m、 厚さ12cmの石板で囲み、その上に石板でふたをした石棺でそれぞれに 上人の名が刻まれている、日本では珍しいものです。 |
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白壁の家と石畳 |
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坊津町
人口:約4,500人(世帯数:約2,000)
町花:ツワブキ、町木:クロガネモチ
黒潮の沖ゆく坊や寒椿
坊津の黄袈裟の僧や石蕗の花
−ワシモ−
八田知紀歌碑
「結ぼれし旅の思ひを大空にけふこそ開らけひら聞の嶽」
梅崎春生文学碑
「人生幻化に似たり」
谷崎潤一郎文学碑
「さつま潟泊の浜の乙女子は嫁ぎてもゆくか伊豆の猛男に」 |
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繁栄当時の面影が残る坊之浜の白壁の民家と石畳。振袖姿のお嬢さんにモデルになってもらいました。ページに華を添えて下さってありがとう! |
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旧密貿易屋敷と唐人町跡 |
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旧密貿易屋敷(森吉兵衛屋敷/写真左)
『倉浜荘』という左の写真の家は、鹿児島に縁の深い作家・梅崎春生の小説『幻化』にも登場する有名な建物で、坊津の豪商・森吉兵衛の屋敷です。地元で「密貿易屋敷」と呼ばれ、外見は一見普通の屋敷に見えますが、中には秘密部屋などのからくりが施してあります。3代森吉兵衛が万延元年(1860)に建て、5代吉兵衛まで住んでいました。
唐人町跡(写真下左右)
博多浦には、中国人(唐人)が住んでいた「唐人町跡」と呼ばれる史跡が残っています。江戸幕府が鎖国令を敷いたため、海外貿易の拠点は長崎の出島に移ることになりますが、それまで博多浦は、大陸への玄関口として、今の福岡県の博多と並んで貿易で栄えた町でした。唐人が長崎の出島に移る際、各々の墓をまとめたのが「唐人祠(ほこら)」(写真下右)だと言われています。石倉と石畳に、唐人町の当時がしのばれます。 |
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現存する旧密貿易屋敷(写真上)、当時貿易の商談や密貿易などに使われていました。唐人町跡の石畳(写真下左)。唐人祠(ほこら)とそこから望む博多浦(写真下右)。 |
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上陸記念碑と鑑真記念館(写真右)
昭和41(1966)、鑑真大和上の遺徳を讃えるために、ゆかりの地・秋目浦に上陸記念碑が建立されました。さらに平成4年(1992)には、鑑真記念館が建設され、当時の様子を伝える「東征伝絵巻」(奈良・唐招提寺蔵)の代表的場面の電照パネルや秋目上陸を再現したスライドやジオラマ模型、中国で作製された鑑真大和上座像の複製などが展示されています。
遣唐使船グラスボート(写真上左)
4月から9月の期間、遣唐使船を模した白と朱塗りのグラスボートが運行されています。奇岩・双剣石や泊浦の美しい海岸線の観賞や海底を泳ぐ魚やサンゴ礁の海中探検が楽しめます。 |
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泊浦に保管されている遣唐使船グラスボート(写真上左)。写真上右は久志浦の遠望。この写真の右上の防波堤のあるところが唐人町があった博多浦。下の写真は、秋目浦の鑑真上陸記念碑と鑑真記念館。 |
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【備考】
■本ページの説明文は、現地の観光板や観光パンフレットを参考にして書きました。
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