コラム  ・故郷忘じがたく候 〜 虎と庭の木   
− 故郷忘じがたく候 〜 虎と庭の木 −
韓国ソウルでは、朝鮮王朝時代の正宮、離宮であった景福宮や昌徳宮、国家最高の祠堂であった宗廟などが日本の観光客で賑わっていることでしょう。それらの史跡はいずれも、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(韓国では壬辰倭乱と呼ばれる)と日本統治時代の時に毀損(きそん)されたという歴史を持っています。日本の観光客の皆さんは、そのことをどのように受け止めているのでしょうか。
 
ソウルへのツアー旅行では、ソウル近郊の水原にある世界文化遺産・華城や利川にある陶器村の観光も定番コースとして組み込まれているようです。文禄・慶長の役、陶器、鹿児島といえば、薩摩焼のふるさと美山(旧苗代川、鹿児島県日置市)に触れないわけにはいきません。
 
今から 410余年前の慶長の役(1597〜98年)で、日本軍は10万人という兵力で朝鮮半島南部、全羅北道の南原(ナムウォン、ナモン)城を攻め落としました。そのとき、日本軍の武将の中に石曼子(しいまんず)と恐れられた島津義弘がいて、陶工70余名を捕らえ日本に連れ帰ったのです。
 
慶長3年(1598年)の冬、島平(鹿児島県いちき串木野市)に漂着上陸した43名の朝鮮陶工たちは、望郷の悲しみに耐えながらも苗代川(現在の美山)に定住し、やがて高雅で気品に満ちた薩摩焼を完成させました。幕末、薩摩焼を長崎経由で輸出して得た巨利はのちの倒幕のため一財源となり、また、慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会に薩摩藩独自で出品した12代沈寿官の白薩摩は世界の絶賛を浴びました。
 
島平漂着より 200年近くを経た江戸時代中期、橘某という医家が薩摩に入って苗代川を訪れ、老人陶工に『先祖が日本に渡来されてからもう 200年近くになるので、ふるさとの朝鮮のことなど思い出すこともございますまい』とたずねたところ、老人陶工は、さにあらず『故郷忘(ほう)じがたく』と答えたそうです(司馬遼太郎著『故郷忘じがたく候』より)。
 
司馬遼太郎著『故郷忘じがたく候』は、今も83歳でご健在の14代沈寿官さんを主人公にした短編です。その14代が自分の生きる道について迷っておられた時のことでしょう、父の13代が14代を庭先に呼び、次のような話しをされたそうです。虎になって思い存分山野を駆けめぐる生き方もよかろう、が、この庭の木をみなさい。自ら選ぶことのできた場所ではないが、与えられた場所に根をはり葉を茂らし、その役目を全うしているではないかと。
 
この話しは、3年前の2006年10月、沈寿官窯の緑陰講座で14代に直接聞いた話しですが、司馬遼太郎著『故郷忘じがたく候』にも、『息子を、ちゃわん屋にせえや』わしの役目はそれだけしかなかったし、お前の役目もそれだけしかない、と13代が言って諭したとあります。今は、1995年に15代が当主を引き継がれ活躍されています。
 
14代沈寿官は1966年に、韓国へ氏の半生のなかではもっとも長い旅をしました。そのときソウル大学で大勢の学生を前に講演したときのエピソードが『故郷忘じがたく候』に書かれています。
 
沈寿官は、韓国の若者がよく口にする日本による36年間の圧政(日本による統治)への批判に対し、その通りであるとしながら、『言うことはよくても言いすぎるとなると、そのときの心情は後ろむきである』と語り、『あなた方が36年をいうなら』『私は 370年をいわねばならない』と言った。
 
おなじ言葉が、他の日本人によって語られるとすれば、聴衆はだまっていないかもしれなかった。しかし大講堂いっぱいの学生たちは、演壇の上のシム・スーガン氏が何者であるかをすでに知っていた。そのとき、学生たちは拍手ではなく『黄色いシャツの男』の大合唱で応えたという。沈氏は壇上でぼう然となった。涙が、眼鏡を濡らした。
 
薩摩焼のふるさと美山では今年(2009年)も10月31日〜11月3日、窯元まつりが開催されました。ドア・ツウ・トアで21時間という時間を費やしてわざわざ来日した韓国南原市立国楽団の舞踊等の公演が印象的でした。
 
下記の旅行記があります。
 旅行記 ・美山窯元まつりの日 − 鹿児島県日置市
 → http://washimo-web.jp/Trip/Miyama02/miyama02.htm
 旅行記 ・薩摩焼のふるさと〜美山 − 鹿児島県東市来町
 → http://washimo-web.jp/Trip/Miyama/miyama.htm
 
【参考図書】
・司馬遼太郎著『故郷忘じがたく候』(文春文庫、2004年10月
 新装版)
 

2009.11.04  
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