レポート  ・ 屯田兵について   
 
− 屯田兵について −
 
 1.屯田とは
 
屯田(とんでん)とは、兵士を遠隔地へ派遣して新しく耕地を開墾させ、平時は農業を営んで自らを養い、いざ戦争というときには軍隊に従事させ戦わせる制度、またその場所や地域をいいます。屯田の歴史は古く、今から約2100年ほど前、前漢の武帝が中国の西域に兵士を置いてその地に駐屯させ外敵を防ぐ『屯田』の設置をしたことに始まったといわれます
(1)
 
 2.屯田制の建議
 
明治4年(1871年)秋、西郷隆盛は腹心の陸軍少将・桐野利秋に北海道を視察させ、北辺の防御について調べさせました。桐野は、ロシア南下の実情を知り、北海道防衛が急務であると西郷に報告します。西郷は桐野の報告を基に翌5年、北海道に屯田兵を配備して対露防衛と開拓に当たらせる屯田兵構想を打ち上げました(2)(3)
 
もともと薩摩藩には、鶴丸城(鹿児島市)を本城とし、領地を外城(とじょう)とよばれる 113の行政区画に分けて統治する制度がありました。日常は農作業にいそしみながら、いざのときには武器を持って軍事に当たる半農半士の武士、いわゆる外城士とよばれる武士集団を外城に駐屯・居住させて統治に当たらせました。まさに屯田兵の制度があったわけです。
 
西郷は、明治4年の廃藩置県に当たり、士族らの失業を心配し、彼らを北海道の開拓と防衛に当たらせようと考えていたといわれます(3)。西郷は計画の実現をみることなく明治6年(1973年)9月に下野して鹿児島に帰りましたが、西郷の影響を受けた開拓使次官の黒田清隆が同年11月に太政官に屯田制を建議しました。
 
 3.屯田兵の入地
 
太政官が黒田の提案に賛成し、明治7年(1874年)、北門を守り北海道開拓に従事する屯田兵に関する屯田兵例則が定められました。そして、入地を琴似(ことに、現在の札幌市西区)と決め、屯田兵たちの住居すなわち兵屋 208戸を建築、翌8年には、発寒(はっさむ、現札幌市西区)にも32戸が建築されました。
 
明治8年(1874年)5月、当時の青森県(旧斗南藩)より49戸、酒田県(旧庄内藩)より8戸、宮城県(旧仙台藩)より93戸、道内(旧榎本軍や松前藩)より48戸の合計 198戸、その家族を合わせて男女 965人が琴似兵村に入植しました。本州三県よりの入地者は、通済丸に乗って小樽に着き、銭函を経て琴似に到着しました。
 
入植のための支度料は二円、旅費、日当は一日三十三銭だったそうです。さらに、兵屋、家具(なべ、おわん、手桶、夜具など)、農具(くわ、かま、と石、山刃、やすり、のこぎり、むしろ)のほか、扶助米として一日一人につき玄米七合五勺、医薬品、埋葬料などが支給されました(4)
 
しかし、こうした補助は、入地後3年間だけで、この期間を過ぎると、あとは自力での開拓でした。但し、琴似の場合、入植3年目に西南の役が起こり、兵士らが出動したので4年間に延長されています。
 
なお、初期の屯田兵制度では、ひとたび屯田兵の任につくと、末代まで世襲しなければならないという厳しい条件でしたが、やがてこれは改善されました。また、初期の屯田兵募集は原則として士族が対象でしたが、後に士族原則は取り払われました。
 
 4.屯田兵の生活
 
屯田兵は、開墾や耕作の作業をしながら必要なとき兵士となって北海道を守るという役目を持っていましたから、軍隊に配属され、軍事訓練を受けました。屯田兵の生活規則は厳しく、起床と就業の時間が定められ、村を遠く離れる際には上官への申告を要しました。
 
軍事訓練と農事のほかに、道路や水路などの開発工事、街路や特定建物の警備、災害救援などに携わりました。史跡琴似屯田兵村兵屋跡(札幌市西区琴似2条5丁目)に、『屯田兵の一日』と題するまんが絵の説明板がありました。その説明文を以下に転載せさてもらいます。
 
@朝、起床ラッパとともに起きます。
A6時、おとうさんは軍事練習。おかあさんは農作業。子供はおかあさんの手伝い。
Bおとうさんは昼休みを除いてきびしい訓練です。
Cおかあさんの農作業を手伝ったあと、子供は勉強に行きます。
D訓練を終えておとうさんが畑仕事の手伝いにきます。
E畑をつくるのにじゃまな木を伐採します。これはかなり危険な仕事です。木が倒れる時、へたに遠くに逃げると危険です。なるべく木のそばにいた方が安全です。
Fクマがたまには民家を襲いました。その時は、みんなで(鉄砲で)撃退しました。
G上官が一週間に一回、屯田兵の家や、くらしぶりを検査しました。一番緊張するときです。
H夕方6時のラッパで家に帰ります。
I夕食です。一日で一番楽しいひとときです。
Jつらい仕事に耐えて思いだすのは、ふるさとのこと。春がもうすぐ、そこまでやってきています。
 
兵屋は、各戸に150坪(約495平方メートル)の宅地を割り当て、17坪半(約58平方メートル)の家が建てられました。家は、間口9m、奥行6.3m で8畳と4畳半の2間に、炉を据えた板の間、土間、便所からなり、流し前は板の間あるいは土間におかれました。
 
今日の住宅から見れば、兵屋の内部は寒く、暗く、狭い作りでしたが、明治初期の住宅としては水準以上のものであり、当時の民家や一般開拓入植者の家に比べれば恵まれたものだったようです(2)(4)
 
もっとも、高温多湿の気候に向いた高床式の日本建築で内部の高い天井には天井板がなく、小屋組みの太い梁がむき出しで、冬季には戸口や雨戸、障子越しに吹き込む寒さに非常な苦痛を強いられたそうです(2)(4)
 
 5.屯田村の数と分布
 
軍隊の仕組みの一つである中隊は、200〜240名ぐらいで組織されていましたから、普通は一つの兵村が一つの中隊になっていました。琴似兵村(発寒の32戸を合わせて、240戸)が、最初の中隊(第一大隊第一中隊)で、翌年にできた山鼻兵村が第二中隊でした。
 
屯田兵村の設置は、明治8年の琴似に始まって同32年の士別、剣淵兵村までおよそ25年間にわたって行われました。開拓使の時代(明治2年〜同15年)には、琴似、山鼻の2兵村と、江別太、篠津太の2試験地に設けられただけでしたが、開拓使が廃止された明治15年以降、陸軍省の所管となってからは、実に34兵村が建設されました。
 
初期の兵村は、札幌本府の警備と北辺の守りをかためるために、全道の主要港湾の防備を目的としていましたが、後期になると営農を重視して、石狩川の流域に集中して兵村が置かれました。その数は、全道37村、総戸数 7,371戸。神奈川県、沖縄県を除く45都道府県から家族を合わせて約4万人が入植しました。屯田兵の制度は明治37年(1904年)9月に廃止されました。
 
 6.屯田兵の貢献(3)
 
(1)未開地の開拓
屯田兵の総人員は道内総人口の1.1%〜4.8%だったのに対して、屯田兵の開拓した新墾地は全道の 9.9%に相当した。
 
屯田兵の農業生産高は全道の 11.62%(明治33年)だった。屯田兵の耕作地の反収は一般より大きかった。
 
屯田兵は開拓使に属し、開拓使の下で、養蚕、麻・亜麻、菓樹の栽培、養鶏などの実地試験を行った。また、テンサイ、ハッカ、タマネギなどをいち早く耕作し、馬産や酪農に挑戦してその後の発展を導いた。稲作の試作に挑み、北海道の稲作の基礎を築いた。このように、屯田兵は北海道農業の先駆者として大きな貢献を果たした。
 
(2)移住者誘引
北海道は明治以来、多くの本州からの移住者によって形成された。屯田兵自身が北海道開拓に貢献しただけではなく、北海道移住の誘引者となって北海道の人口増に一定の役割を果たした。
 
(3)社会的貢献
屯田兵の制度が廃止された後、兵村を中心に集落や街が形成され、兵村が市町村の核となったばかりでなく、元屯田兵たちが地域社会や行政の指導者として活躍し、地方の政治、経済にとって貴重な人材を供給した。
 
(4)防衛・警備上の役割
屯田兵は、南下政策をとるロシア帝国の侵略に対する抑止力となった。
 
参考図書(3)の 若林滋・編著「北の礎−屯田兵開拓の真相−」の”発刊に寄せて”に北海道屯田倶楽部名誉会長小林博明氏のつぎの言葉があります。−著者は、「屯田兵制度は有効にして成功した制度だった」との従来の評価を肯定しながらも、「それは屯田兵と家族の犠牲と献身を抜きにしてはあり得なかった」と述べている。これこそ著者の視座であり、本書に一貫した「目」であろう。
 
下記の旅行記があります。
 ■旅行記 ・琴似屯田兵村兵屋跡 − 北海道札幌市
 
【参考図書・文献およびサイト】
(1) 屯田−wikipedia
(2) 屯田兵−wikipedia
(3) 若林滋・編著「北の礎−屯田兵開拓の真相−」(中西出版、2005年5月発行
(4) 琴似屯田兵村兵屋(琴似神社)パンフレット
(5) 国指定史跡琴似屯田兵村兵屋跡パンフレット
  

  2012.11.28
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