レポート  ・田染荘(たしぶのしょう)   
− 田染荘(たしぶのしょう) −

国東六郷満山の思想と財政のバックボーンであった宇佐神宮は、薩摩隼人や大宰府の次官・藤原広嗣の反乱の平定や、聖武天皇の東大寺大仏建立への寄進などを通じて、九州にありながら中央政界と密接な関係を持つとともに、九州一円に広大な荘園を持ち、全国4万社余りの八幡宮の総本宮としてめざましい隆盛をみせます。
 
国東半島の、湾曲した首根っこの真中当たりにある豊後高田市の内陸部、田染地区は、国宝富貴寺大堂や真木大堂をはじめ多くの文化財に恵まれた「仏の里」です。ここは、宇佐神宮領の「本御荘十八箇所」と呼ばれる根本荘園の一つでした。宇佐神宮は平安時代の終わりには、2万町歩を越える荘園を所有する全国屈指の荘園領主で、田染荘はその中でも最も重要視された荘園でした。
 
大化の改新( 645年)の7年のち、土地と人はすべて朝廷(国・天皇)のものとし、農民には口分田(くぶんでん)を貸し与えるという律令制が制定されましたが、やがて口分田が不足するようになります。
 
そこで、 723年に、三世代までの墾田の私有を認める三世一身法により墾田の開発を奨励しましたが、さしたる効果はあがらず、 743年には、墾田永年私財法を発して墾田の永年私財化を認めることになりました。
 
これを契機に、有力豪族や寺院などによる荘園が各地に設置されていきます。田染でも、小崎(おさき)地区の雨引(あまびき)神社鳥居の前から湧き出る湧水を利用して水田開発が始まりました。この土地の地形を利用して様々な曲線を描きながら不揃いな形をした水田が開発され、やがて宇佐神宮が支配する荘園となり、田染荘が誕生しました。
 
荘園が発達するに従って、「自分たちの土地は自分たちで守る」という有力な農民が現れ、地方に残った貴族や皇族を頭領とする武士団が形成されるようになります。そして、平氏を滅ぼし鎌倉に武士の政権を作った源頼朝は、自分と主従関係をむすんだ武士を御家人(ごけにん)とよび、彼らを守護や地頭として全国に配置し、荘園の支配に当たらせました。
 
田染荘も鎌倉後期になって、宇佐宮のお膝下の荘園でありながら大友氏一族の小田原氏や、北条氏一族の名越氏など、関東の御家人に領主権を奪われてしまいました。
  
しかし、文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の二度にわたる蒙古(もうこ)襲来が、衰退しつつある宇佐宮に再生のチャンスを与えることになったのです。大軍をもって北九州に来攻した元は、二度とも折からの悪天候に妨げられ日本侵略を果たせませんでした。
 
朝廷と幕府は、蒙古襲来合戦の勝利は「神風」の助けを借りた結果であると考え、その神仏のご加護に報いるため、もと社家のものだった土地の無条件返還を求めることのできる徳政令が出します。いわゆる「神領興行法」といわれるものです。
 
田染荘では、この神領興行法を楯に、宇佐神官・宇佐忠基と定基が、領主小田原氏とその関係者らを相手に数年にわたって旧領返還の訴訟を起こします。この訴訟によって忠基と定基は、小崎に屋敷を確保し、以後その子孫が田染氏を称して、宇佐神宮の田染支配の拠点となったといわれます。
 
田染荘の発祥の地であり、中世の動乱のなかで武家勢力の進出、それに対する巻き返しなど政治抗争の場となりながら形成された小崎地区は、集落の位置や水田や周囲の景観を荘園当時のまま残す貴重な文化遺産となっています。今年(2005年)6月中旬に、千年の時を刻む水田を小崎荘園保存地区に訪ねました。
 
■旅行記 ・田染荘(たしぶのしょう) − 国東半島を訪ねて(11)
 → http://washimo-web.jp/Trip/Tashibu/tashibu.htm
 

2005.09.21  
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