レポート  ・島津忠長(宮之城家)   
島津忠長(宮之城家)
またまた寒気団が南下してきて、薩摩地方は大晦日の朝に続いて、2021年1月9日(土)の朝、今シーズン2度目の降雪になりました。冠雪の墓石群を撮ろうと、我がさつま町内にある宗功寺公園(そうこうじこうえん)に行ってみました。
 
宮之城島津家の菩堤寺・宗功寺のあった公園で、九州一の規模を誇る石の屋根の付いた歴代領主の巨大な墓石群が残されています。この宗功寺を創建した二代島津忠長は武勇は目覚しかった武将でした。以下に、ウィキペディアから転載させて頂きます。
 
 島津 忠長(しまづ ただなが、ただたけ)
 
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。薩摩国島津氏の庶流で、島津義久の家老さらに老中。島津貴久の末弟・尚久の嫡男として誕生しました。天正4年(1576年)の日向国高原城攻めや天正6年(1578年)の耳川の戦いなどに従軍し功を上げ、天正9年(1581年)の肥後国水俣城攻めでは脇大将を務めました。
 
また、天正12年(1584年)島津家久と共に肥前有馬氏の援兵として島原へ渡海し、沖田畷(おきたなわて)の戦いで軍功を挙げました。天正12年(1584年)10月1日から7日までの一週間にかけて、島津義弘から金瘡医術の伝授を受け、秘伝の医書を与えられています。
 
金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病を扱った医術のことです。天正14年(1586年)に高橋紹運が守る岩屋城攻めの総大将を務めた時には、わずか 800にも満たない城兵の決死の反撃により4000人もの死傷者を出した上、豊臣秀吉軍の九州上陸までの時間をも稼がれてしまいました。
 
秀吉に降伏後の天正15年(1587年)、義久の上洛の供をしそのまま豊臣氏の人質として伏見に住みました。文禄元年(1592年)に島津歳久が自害に追い込まれた際は、首が京都の一条戻橋にさらされたのを取り返しに行くという気骨のあるところを見せています。
 
その後の文禄・慶長の役にも従軍し泗川の戦いで奮戦、忠長は 100の兵で10,000の明の大軍を撃ち破り、義弘の窮地を救うという神業をやってのけました。これらの功績により宮之城領主に任命されました。なお祁答院も領地として与えられています。

帰国後は慶長4年(1599年)の庄内の乱に参陣、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は加藤清正の軍勢が水俣まで船を寄せたため、嫡男の忠倍と共に国境の警備役を仰せ付かっています。

戦後は島津氏の代表として新納旅庵・市来家政と共に徳川家康との交渉に当たりました。慶長15年(1610年)11月9日、宮之城にて死去。享年60。家督は、嫡男の忠倍が忠長に先立ったため、新納氏の婿養子となっていた次男の久元が継ぎました。この忠長の系統が、後に宮之城島津家となります。
 
 出典:島津忠長 (宮之城家) - Wikipedia
 
下記の旅行記があります。
 ■旅行記 ・宗功寺公園 〜 冠雪の墓石群 − 鹿児島県さつま町
 

2021.01.13
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