レポート  ・島尾敏雄   
− 島尾敏雄 −
  
             (一)
  
島尾敏雄(しまおとしお、1917年〜1986年、日本の作家)は、神奈川県横浜市に生まれ、のちに一家で神戸に移住。中学時代から同人誌を刊行するなどし、長崎商高から九州帝大に入学。高校、大学時代も、いくつもの同人誌に参加して詩や随筆を書き、旅を愛する文学青年でしたが、1941年(昭和16年)12月、やがて敗戦に終ることとなる太平洋戦争を迎えます。
 
1943年(昭和18年)9月末、大学を繰上げ卒業すると当時に、海軍予備学生を志願。翌年、震洋艇特攻要員に決まると、10月、第18震洋隊(隊員 183名)の隊長として、奄美諸島の加計呂麻島(かけろまじま)に赴任。呑ノ浦(のみのうら)に基地を設営して待機中、同年8月13日の夕方特攻戦発動の命令を受けますが、発進の合図が出ないまま8月15日の終戦を迎え、九死に一生を得ます。この時の特異な体験を緊迫した言葉で綴った作品に『出発は遂に訪れず』(新潮社)があります。
 
震洋艇は、全長5m、横幅1mばかりの、ベニヤ張りのボートにトラックのエンジンを積み込んだもので、そのへさきに 230kgの炸薬(さくやく)を載せ、ただひとりの搭乗員もろとも敵の艦船に体当たりする特攻兵器でした。絶対にさけられない運命と覚悟していた死からの生還。この特攻隊体験は、島尾敏雄の生涯と文学に決定的な影響を与えます。氏の戦争体験は同時に氏の青春の体験であり、氏はその青春の体験を戦後の現実として生きて引き受けて行くことになります[1]
 
島尾は敗戦の翌年、戦争の只中で邂逅(かいこう)した島の女性−大平ミホと結婚します。鹿児島市にあるかごしま文学館で、ミホ夫人が島尾敏雄について語った3分間程度のビデオを見ることができます。主人のことを申せば自慢話のようになってしまうかも知れませんがと前置きして、ミホ夫人は次のように語ります。
 
〜 島尾のことを加計呂麻島の人々は、あの人こそ人間としての本当に立派な極まりの人でしょうといってくれていました。隊長さん、隊長さんと、年寄りから子供までに親しまれ、人情深く、豪傑で、あなたさまのためなら喜んで皆の命を捧げますという歌まで作って歌ってくれるほどでした。島には山坂があるので、荷物を背負った老婆を見ると気軽に代わって背負い、子供たちにあえば、一緒に手をつないで唱歌を歌っていました。
 
しかし、大変勇ましい人で、隊長としてきちんとした人でした。一般の人に対しては軍人としての印象のなかった人でしたが、それでも部隊の人は、隊長は何もいわないけれど、じっと見られると怖かったといっていました。 〜
  
島尾ミホ(しまおみほ、1919年〜2007年、日本の作家)は、奄美群島加計呂麻島出身。島尾敏雄の代表作『死の棘』に登場する『妻』のモデル。自らも筆をとり、『海辺の生と死』で田村俊子賞を受賞、他に『祭り裏』、短編『その夜』など故郷に題材を取った作品が多い。
 
加計呂麻島の島長(しまおさ)で祭事を司る『ノロ(祝女)』(奄美諸島や沖縄県の琉球の信仰における女司祭)の家系に生まれ、巫女(みこ)後継者と目されていましたが、のちに島で小学校の代用教員を勤め、島内で催された特攻隊慰問の学芸会で『島尾隊長』と知り合い、二人は運命的な恋におちます。
 
アレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『ドルチェ─優しく』(2000年)に主演。敏雄との間に息子の島尾伸三(写真家)と娘の島尾マヤ(1950年〜2002年)がいます。1986年11月に島尾敏雄が死去。以後亡くなるまでの20年間余、ミホ夫人は島尾の分骨を手元に置き、常に縁の広い黒い帽子の喪服姿で通したといわれます。2007年、脳内出血のため奄美市の自宅で死去。独居の為、孫のしまおまほ(漫画家)によって発見されました。享年87[2]
 
震洋隊基地のある呑之浦から東に坂道を上り詰めると押角(おしかく)湾が見えてきます。押角集落では空爆を逃れるため住民のほとんどが山へ避難しているなかでミホさんだけは集落内に留まり、夜中になると電灯も持たずに手さぐり足さぐりで基地北門外近くの浜辺まで出かけ行き、二人は逢瀬を重ねます。
 
〜 すぐ寝床を降り、北門の外に出ると、トエ(ミホさんのこと)が白昼をあいだに置いて前の日からそうしていたと思われる格好で砂浜に吸いつくように坐っていた。私は何度も重ねてきた同じ姿勢で彼女をなだめ、 〜 ・・・『出発は遂に訪れず』より
 
〜 そして涙をとどめなく流すので、ふと戦時中のことを思ってしまう。妻の古里の海軍基地に居た私が、いつも夜更けてたずねて行くと、娘らしくふとっていた彼女は闇のなかで私の階級章をまさぐり、軍服にさわり、しゃがんで搭乗靴を撫でた。 〜 ・・・『死の棘(とげ)』[4] より
 
そして、8月13日の夕方特攻戦発動の命令が出されたことを知ったミホさんは、死装束に身を包み、島尾とともに死ぬ決心をします。その8月13日の晩に書かれたミホさんの手紙が残されています。手紙といっても、A5サイズほどの日記帳に書かれたもので、ページが3〜4枚ほど破られたものがかごしま文学館に展示されています。実際に島尾のもとに届いたものではなく、13日の晩の切羽詰まった想いを書いたものでしょう。鉛筆で次のように書かれています。
 
  あなた
  北門の側まで来てゐます。
       征
      \/
  ついてはいけないでせうか。←
(この行には取り消し線が
  御目にかゝらせて下さい。       引かれています)
  御目にかゝらせて下さい。
  なんとかして御目にかゝらせて下さい。
  決して取乱したりしません。
 
    八月十三日真夜
      敏雄様      ミホ
 
しかし、出発は遂に訪れず、島尾は間一髪で九死に一生を得、敗戦の翌年二人は結婚。以来、神戸に在住して島尾は女子短大、外国語大などに勤めながら創作活動に従い、伸三とマヤの二児の父となります。
  
運命的な出会いと熱愛の末結婚した二人でしたが、結婚後の二人は島尾の代表作『死の棘』からうかがえるように、鋭い対立の世界へ入っていきました。島尾はそこで夫婦、あるいは男と女の存在の本質にかかわる問題に真正面からぶつかり、目をそらさず、作家として全力で文学化し、大作『死の棘』を生み出すことになります[3]
  
             (ニ)
  
出発は遂に訪れず・・・。特攻出撃とともに、奄美諸島加計呂麻(かけろま)の地に散るはずであった島尾敏雄と大平ミホは、敗戦により思いがけない生を得え、終戦の翌年結婚。神戸に移り住み、島尾は女子短大、外国語大などに勤めながら創作活動に従い、一男一女をもうけます。
 
やがて1952年(昭和27年)、職を辞して妻子とともに東京へ移住しますが、この東京移住が大きな転換となります。2年後の1954年(昭和29年)夏頃、島尾の不倫がもとで妻ミホが突然神経に異常を来たすのです。二人の関係は破局。夫への愛着と憎悪との異常な交錯に気も狂わんばかりとなった夫人との苦悶の日々が続きます。
 
・・・。発作のときの妻の要求はただひとつだけ。私にその過去の行為を認めさせ、くわしい説明を迫るのだが、その度かさなるくりかえしに私は自分がおさえられない。追及を逃げると妻はどこまでも追いかけ、あげくの果ては小刀や紐(ひも)を持ちだし自殺のまねをはじめ、おたがいが先にやろうと取っ組み合う始末になる・・・・・『死の棘(とげ)』より
 
そして発作が落ち着くと、今度は『こんなこともうよそう』、『何もかも一からやり直そう』と反省。しかし、発作はすぐまたやってきます。この繰り返しの毎日のなかで、幼い二人の子どもらは心の底深いところで傷つき、家庭崩壊の危機に当面します。小岩から佐倉、池袋、市川などに転々居を移しながら、ついには妻に付添って夫婦ともども精神病院に入院することになります。
 
1955年(昭和30年)、やっと小康を得た妻のために、妻の古里加計呂麻に近い奄美大島の名瀬市(現奄美市)に移り住みます。このとき、島尾にとっては『再びペンをとる日が訪れるだろうか』と思うほどの深い打撃だったといいます[3]。 しかし、実際は中央から隔絶し寡作でありながら、島尾文学は、文壇の注目を集め続けます。鹿児島県立大島実業高等学校(現県立奄美高等学校)講師をしながら執筆活動を続け、1956年(昭和31)、夫人と同じ信仰のカトリックの洗礼を受けます。以来20年間奄美で生活。
 
『奄美郷土研究会』を組織して南島研究をすすめ、ヤポネシア(Japonesia) の概念を考案。また、県立図書館奄美分館の初代館長として活躍。離島の教育委員会や公民館を通じた図書の貸借や港の待合室や船内での読書室の設置活動や離島への移動図書館業務の充実に尽すなど、日本の離島を抱えた地域における図書館活動のあり方に影響を与えました[5]
 
1975年(昭和50年)、県立図書館奄美分館長を辞職し、名瀬市から指宿市へ転居し、鹿児島純心女子短期大学(鹿児島市)の教授兼図書館長となり、翌年、17年にわたる連作小説『死の棘』が完結し完全版が一冊にまとめられました。以後、鹿児島と神奈川で暮らしましたが、1986年(昭和61年)11月12日、鹿児島市宇宿の自宅で死去。享年69歳。代表作は『夢の中での日常』、『出孤島記』、『出発は遂に訪れず』、『日の移ろい』、『死の棘』(日本文学大賞・読売文学賞・芸術選奨)、『魚雷艇学生』(野間文芸賞・川端康成文学賞)など。
 
 『死の棘』について
 
島尾敏雄は、夫婦の凄絶な葛藤、苦悶の日々を日記に記録し続けていました。この作品は、17年にわたる連作小説を一冊にまとめたものですが、実際は、わずか半年間のできごとが深く掘り下げられて書かれた生の記録となっています。
 
島尾がミホ夫人との事件を作品化しようと試み出したのは昭和31年頃だったといわれます。この頃はミホ夫人がすでに回癒を遂げていた時期でしたから、この作品は、かつて島尾の行為に激しく憤り、嫉妬し、はては狂乱にまで到ったミホ夫人への、鎮魂の歌でもあったと山本健吉の解説があります[6]
 
また、題名の『死の棘』は、新約聖書の『死の刺(はり)』が出所で、死人の復活(よみがえり)を意味します[6]。 文庫本 610ページの長編(純文学の 610ページは読み応えがあります)で、発作〜反省〜発作の苦悶の様子が繰り返し繰り返し描かれているのにも関わらず、読後感が明るいのは、回癒と甦(よみがえり)が、この作品の主題となっているからに他ならないでしょう。作品は、島尾がミホ夫人に付添って夫婦ともども精神病院に入院するところで終ります。
 
・・・この世で頼りきった私にそむかれた果ての寂寥(せきりょう)の奈落(ならく)に落ちこんだ妻のおもかげが、私の魂をしっかりつかみ、飛び去ろうとする私のからだを引きつけてはなさない。妻が精神病棟のなかで私の帰りを待っているんだ。その妻と共にその病室のなかでくらすことのほかに、私の為(な)すことがあるとは思えなかったのだ。・・・・・『死の棘』より
 
なお、『死の棘』は小栗康平により映画化され1990年(平成2年)に公開されました。映画化は大変むずかしいといわれていた島尾文学の映画化に成功。カンヌ映画祭で、準グランプリに相当する大賞と国際批評大賞の2冠を得ました。主演は、松坂慶子と岸部一徳。松坂慶子は全編、ノーメイクでの熱演だったそうです。(敬称略)
 
下記の旅行記があります。
 ・旅行記 島尾敏雄文学碑公園 − 鹿児島県瀬戸内町
    
【参考図書等】
[1]島尾敏雄著『出発は遂に訪れず』(1973年、新潮文庫)の森川達也氏の解説。
[2]島尾ミホ氏の略歴については、フリー百科事典『ウィキペディア』から引用。
[3]かごしま文学館(鹿児島市)の島尾敏雄コーナーの説明文。
[4]島尾敏雄著『死の棘』(1981年、新潮文庫)
[5]島尾敏雄:フリー百科事典『ウィキペディア』
[6]島尾敏雄著『死の棘』(1981年発行、新潮文庫)の巻末解説
 
【備考】
下記のページで、島尾敏雄、ミホ夫人、娘のマヤさん(いずれも故人)の貴重な写真を見ることができます。
・奥野健男の文学世界−青春の交友
  → http://home.e08.itscom.net/okuno/newpage1.html
 

2009.08.12  
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