レポート  ・お市の方   
− お市の方 −
天文16年(1547年)尾張国の武将織田信秀の娘に生まれる。織田信長の妹で絶世の美女といわれた戦国時代(室町時代末期)の女性。信長が美濃国斎藤氏との膠着状態を打破するため浅井長政(あざいながまさ)と同盟を結ぶと、永禄10年(1567年)信長の命により政略結婚で長政に嫁ぐ。お市の方、20歳。
 
浅井長政は、織田氏との同盟のもとで浅井氏の全盛期を築いていきますが、元亀元年(1570年)、信長が長政と交わした『朝倉への不戦の誓い』を破り、越前の朝倉氏を攻め始めると、朝倉氏との同盟関係を重視した長政は、織田・徳川軍を背後から急襲しました。
 
この時、お市の方が小豆入りの袋の両端をしばったものを陣中見舞いと称して信長に送り、暗に長政の寝返りによる挟み撃ちの危機を伝えた逸話はよく知られていますが、夫と兄との狭間に彼女の気持は揺れ、相当に心痛めたことでしょう。信長は殿(しんがり)を務めた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)らの働きにより、命からがら近江を脱出し、長政は同年6月、姉川の戦いで織田・徳川軍に敗れることになるのですから。
 
天正元年(1573年)8月、もはや浅井長政に反撃の手段は無く、ついに本拠の小谷城(おたにじょう、現滋賀県長浜市)が織田軍に囲まれます。しかし、長政を高く評価していた信長は、お市の方を救いたいという思いもあって、長政に何度も降伏勧告を行いました。裏切りを嫌う信長にしては破格の案を出し、羽柴秀吉などを使者として送らせましたが長政は断り続け、最終勧告も決裂しました。
 
 
お市の方像(柴田神社)
  
長政と仲睦まじかったお市の方は運命を共にする決意でしたが、長政から諌(いさ)められ帰還を決意しました。小谷城が陥落すると、お市の方は茶々、初、江の3人の娘と共に城より救出され織田家に引き取られました。長政は父の久政と共に小谷城内にて自害。長男の万福丸は捕われて殺害、次男の万寿丸は出家させられることになります。時に長政29歳、お市の方26歳。政略結婚でしたが長政との間は仲睦まじく、浅井氏と織田氏の友好関係が断絶した後も周りが羨むほどの仲だったそうです。
  
その後、お市の方は9年余りを兄の織田信包の庇護を受け、三人の娘とともに尾張国清洲城で平穏に過ごします。この間の信長のお市の方親子に対する待遇は大変厚ったといわれます。天正10年(1582年)信長が本能寺の変に倒れると同年6月、織田家筆頭家老・柴田勝家と再婚し、越前国北ノ庄城へ移り住みます。しかし、平穏な日々もつかの間、翌年4月勝家が賤ヶ岳合戦で羽柴秀吉に敗北すると、燃え盛る北ノ庄城内から3人の娘たちを落とし自らは勝家と共に自害して果てました。勝家、享年62歳、お市の方37歳。
 
お市の方は何故、10年近くを未亡人として過したのち、兄の信長が亡くなると同時に勝家と再婚し、わずか10ヶ月の新婚生活というのに勝家と自決する道を選んだのでしょうか? 勝家はお市の方に娘たちと共に城をでるように諭しましたが、お市の方は勝家と夫婦静かに盃を交わし、辞世の和歌を残して自害したといわれます。
 
    さらぬだに 打ちぬる程も
           夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな
 
 
『お市の方肖像画』(原本:高野山持明院蔵)
北ノ庄城址公園にて撮影
  
お市の方は、燃え盛る北ノ庄城から落ちて行く3人の娘の行く末の安泰を願ったことでしょうが、茶々(豊臣秀吉側室)・初(京極高次正室)・江(ごう)(徳川秀忠継室、徳川家光の生母)、いわゆる浅井三姉妹の成長と活躍を知ることもなかったわけです。
 
茶々(淀殿)( 〜1583年)
 
茶々はお市の方の長女で、淀殿とも呼ばれた。秀吉の側室となって寵愛を受け秀頼をもうけた。秀吉は茶々の母・お市の方に憧れていたとされ、三姉妹の中では母の面影を一番よく受け継いでいた長女の茶々を、側室に迎えたといわれる。秀吉の死後は秀頼の後見人として豊臣家の家政の実権を握った。慶長19年(1614年)徳川家康の大軍と交戦することになり、翌元和元年5月8日、秀頼とともに大阪城中で自害した。享年49歳と伝えられる。
 
お初( 〜1633年)
 
お市の方の二女お初は、姉茶々と妹のお江とともに秀吉に引き取られ、のちに従兄弟の京極高次に嫁ぎ忠高をもうける。高次は慶長5年(1600年)関ヶ原合戦ののち、若狭国小浜城主(所領9万2千石)となる。慶長14年お初は夫と死別後、剃髪して常高院と号した。この頃からたびたび淀殿を訪ねている。大阪の陣には徳川家康の命を受け大阪城に使者として入り、姉淀殿と和平の交渉をした。寛永10年(1633年)8月27日江戸において死去。享年66歳と伝えられる。
 
お江(ごう)(1573〜1626年)
 
お市の方の三女お江は豊臣秀勝などと再婚を重ねた後に、徳川二代将軍秀忠の正室となる。秀忠との間には7人の子宝に恵まれた。長男家光は三代将軍に、次男忠長は駿河大納言となる。長女千姫は淀殿の長男秀頼の夫人になり、次女珠姫は加賀藩前田家の養女、三女勝姫は福井二代藩主松平忠直に嫁いでいる。四女初姫は京極忠高、五女和子(東福門院)は後水尾天皇に嫁ぎ中宮となる。寛永3年(1626年)9月15日江戸城において生涯を終えた。享年54歳。
 
下記の旅行記があります。
旅行記 ・小谷城址 − 滋賀県長浜市
旅行記 ・北ノ庄城 〜 西光寺 − 福井県福井市
       
【備考】参考にしたサイトおよび資料
このレポートは、ウィキペディアのお市の方、浅井長政、柴田勝家のページおよび福井市の北ノ庄城址公園(柴田神社)案内板の説明文などを参考にして書きました。
 


2010.12.22 
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