2011年NHK大河ドラマ
 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜』
          ゆかりの地を訪ねて(1)
♪トロイメライ(夢)  
 
うっちいの音楽箱!  
小谷城 − 滋賀県長浜市
信長が天下を目指す歴史物語で必ずと言っていいほど登場するのが、湖北(現滋賀県北部)を領していた戦国大名・浅井長政(あざいながまさ)です。信長の妹で絶世の美女といわれたお市の方を娶(めと)り信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築きましたが、のちに信長と決裂して織田軍との戦いに敗れ小谷城(おたにじょう)で自害。お市の方は、炎上する小谷城を後に、のちに秀吉の側室・淀殿になる茶々、京極高次の正室になる初、そして徳川二代将軍秀忠の正室になる江(ごう)の三人の幼い娘を連れて城を落ちていきました。冬紅葉が旅情をそそる12月上旬に小谷城址を訪ねました。(旅した日 2010年12月)
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お た に じょう し
小谷城址
大広間(千畳敷)と本丸跡(写真上)
本丸跡の木立(写真上)
江戸時代中期の絵図に『天守共、鐘丸共』と記されているところから、鐘丸がその機能を表しており、何層かの櫓があったと考えれています。案内板(写真右)に『鐘の丸ともいう。石垣をめぐらした約12mの高所に約30mに25mの広さをもつ。落城寸前まで城主長政が居住していた処である。彦根城西の丸三重櫓は元小谷城天守と伝える。』とあります。
『大広間(千畳敷)』は、黒金門を上がったところにある、城内で一番広い平坦部であり、面積は、約3000u あります。過去の発掘調査において、6尺3寸(191センチ)間隔で礎石が出てきたことから、ここに大きな本丸御殿があったと考えられています。大広間の奥に石垣を積んで一段高くなったところが『本丸跡』です。
本丸石垣(写真上)
小谷城址を訪ねるの旅情をそそる冬紅葉。背後に本丸跡の石垣が見えます(写真上)
首据石(写真上)
『首据石』は、黒金門跡の手前にあり、天文2年(1533年)1月、初代亮政は六角氏の合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り、神照寺に誘殺し首をここにさらしたと伝えられています。
『赤尾美作守屋敷址』は、『首据石』のある位置から右手に160mほど行ったところにあります。浅井三代に仕えた浅井氏の重臣赤尾清綱の屋敷跡と考えられています。浅井長政が自刃した場所といわれ、『浅井長政公自刃之地』の石碑が建てられています。
『赤尾美作守屋敷址』への標識(写真上)
黒金門跡(写真上)
『史跡小谷城址』石碑(写真上)
『桜馬場跡』は、御馬屋跡の上方、大広間跡の前にある曲輪で、細長く二段からなっていて、『小谷城跡之碑』(昭和4年(1929年)建立)と『浅井氏及家臣供養塔』(昭和47年(1971年)建立)が建てられています。
『黒金門』は、大広間に設けられた重要な門で、中央に石段が敷かれています。ここを通って本丸に入ります。『黒金門』と呼ばれていることから、鉄を打ち付けた扉の門であったと考えられます。
浅井氏及家臣供養塔(写真上)
桜馬場跡(写真上)
馬洗池・馬屋跡(写真上)
番所跡のすぐ上にある曲輪が『御茶屋跡』(写真下)で、縦一列につながる主郭の最先端に位置しています。比較的広く、曲輪の真ん中に前後に分ける低い土塁が見られます。『御茶屋』という名前の風雅さには似つかない軍事的施設でした。
『馬洗池』は、名前は馬洗い池となっていますが、実際は城内の飲料水を確保するための溜池であったと考えられており、往時は年中水が絶えなかったといわれます。ここは、西隣に土塁で囲った馬屋があり、北の柳の馬場に通じており、馬関係の一画でした。
番所から160m、本丸へ240mの位置(写真上)
御茶屋跡(写真上)
番所跡(写真上)
金吾丸から歩いてすぐの平坦な場所が『番所跡』です。当時は、暗殺や城内撹乱、スパイ活動などが活発だったため、ここで城内の出入りを厳重にチェックしていました。ここから城内主要部となります。
小谷城は、いくつかの曲輪(くるわ)がちょうど尾根の上に配置される形となり、それが縦一列につながっています。『曲輪』とは、城郭内にある一定区画を分かつ区域で、軍事的・政治的な意図を持って、削平・盛土された平面空間と定義されています。
小谷山曲輪配置図(写真上)
金吾丸跡に立つ案内図
昔は、麓からこの金吾丸まで大手道という道が通っていて、徒歩で約30分を要していましたが、現在は小谷山登り口から金吾丸まで舗装された林道が整備され、車で行くことができます。 
 
金吾丸跡には『小谷城跡案内図』の看板が立てられていて、この看板に向って右に進むとすぐそこが『番所跡』であり、ここから城内主要部となります。
大手道から眺める琵琶湖。竹生島(ちくぶしま)が見えます(写真上)
小谷山登り口の幟旗(写真上)
小谷城が陥落すると、お市の方は茶々、初、江の3人の娘と共に城より救出され織田家に引き取られ、長男の万福丸は捕われて殺害、次男の万寿丸は出家させられることになります。時に長政29歳、お市の方26歳。信長が本能寺の変に倒れた後、お市の方は柴田勝家に嫁ぎますが、平穏な日々もつかの間、勝家が賤ヶ岳合戦で羽柴秀吉に敗北すると、燃え盛る越前北ノ庄城内から3人の娘たちを落とし、自らは勝家と共に自害して果てます。時に、お市の方37歳。
  お市の方
中世五大山城の一つとして有名な城、浅井長政とお市の方が過ごし、そして永遠の別れを遂げた城『小谷城』。兄・信長の命により浅井長政とお市の方は政略結婚し、織田家と浅井家は同盟関係を結びますが、信長が浅井氏と関係の深い越前(福井県)の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶。しかし、長政とお市の方の夫婦関係は周りが羨むほど仲睦まじかったといいます。
南方より見る小谷山(写真手前の山、標高495m)
小谷山登り口の案内図と詩碑『小谷城懐古』(写真中央)(写真上)
        
国指定史跡 小谷城址
 小谷城は、戦国乱世の大永4年(1504年)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、久政を経て、三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(1573年)までの50年間、浅井氏が根城としたところであり、六角氏との戦や姉川の戦にもこの城から多くの将士が勇躍して出陣したのである。
 また、この城は信長の妹お市の方の住した所であり、その子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもあってひとしお旅情をそそるものがあろう。小谷城は、北国街道中山道、北国脇往還の交通の要衝にあり、湖上交通を利用すればはるか湖南湖西京都へと通ずる地の利を占める上に江北三郡を一望におさめ得る要所である。 城は典型的な山城であり、下より尾根上に出丸金吾丸・番所・御茶屋・御馬屋・馬洗池・桜馬場・黒金御門・大広間・本丸・中ノ丸・刀洗池・京極丸・小丸 と続き、海抜395メートルの山王丸を頂とする。山腹には赤尾屋敷・御局屋敷・大野木屋敷を始め、削平地・竪掘等遺構は全山に埋めている。更に主峰大嶽・六坊を始め要所には遺構が散在し清水谷には根小屋跡があって、武将たちの屋敷跡が歴然としており、これより続く城跡西方の平坦地は城下町であった。落城後、木下藤吉郎秀吉によって城楼、城下町、寺院等が今浜(現長浜)に移され今は空しく松籟
のみが、昔の悲劇を物語っている。※ 松籟(しょうらい)=松のこずえに吹く風のこと。                                        昭和51年10月 湖北町教育委員会 
 レポート ・浅井長政
   
   
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