レポート  ・錦江町 〜 与論島への支援   
 
錦江町 〜 与論島への支援
鹿児島県最南端の島・与論島。島の一周が約20km、人口約 5,000人の小さな島です。沖縄が復帰する1972年(昭和47年)までは日本最南端のリゾートの島として賑わいましたが、「東洋に浮かぶ真珠」と称されるその美しさは今もかわりません。その与論島内で、2020年7月22日から8月8日までの間に55名の新型コロナウイルス患者が確認されました。
 
さて、鹿児島県の大隅半島西部に錦江町(きんこうちょう)という町(鹿児島県肝属郡錦江町)があります。2005年(平成17年)3月、旧・大根占町と旧・田代町との合併により誕生した人口約 6,900人の町です。その錦江町の有志がコロナ苦境の与論町への支援に乗り出しているというニュースが8月17日の地元紙(南日本新聞)に載りました。
 
  
美しい島ながら与論島は、少ない資源と人口過密に悩まされ、明治期に三池炭鉱へ、第二次大戦中に中国の満州へと、第二の故郷づくりのために集団移住を余儀なくされた歴史を持つ島でもあります。
 
1944年(昭和19年)3月、夢を抱いて満州へ渡った満州開拓団でしたが、敗戦により入植わずか2年3ヶ月後には引揚げ。与論島に戻りたくても戻れない人たちは、本土での再開拓を決意し、鹿児島県肝属郡田代村(現錦江町田代麓)に入植しました。
 
うっそうとした杉などの大木が茂り、見上げても空が見えない。足元は昼なお暗く、イノシシならともかく、人間が果たして生活できるのだろうかと不安がつのる。それでも、田代を開拓地に選んだのは、与論島では確保に苦労した水と薪が豊富にあったからだそうです。
 
満州で無念の涙をのんで死んでいった人たちのためにも、生き残った者たちが頑張らなければならない、開拓地の名前も、満州の開拓地をそのまま引き継いで『盤山』(ばんざん)』としました。
 
入植11年目の1957年(昭和32年)、4戸の開拓農家が栽培に踏み切ったお茶栽培が盤山の苦境を救うことになりました。盤山には現在7〜8町歩(700〜800ha)のお茶畑が広がります。
 
そうした縁で、旧田代町と与論町は1969年(昭和44年)に姉妹盟約を結びました。合併して錦江町になった後も、交流が続けられていて、盤山入植60周年の記念の年でもある2006年(平成18年)に改めて姉妹盟約が締結されました。
 
 
異業種交流会「錦江町美化倶楽部」は義援金約20万円を集め、地元特産の豚肉のみそ漬けや水産加工品、除菌シートなどを購入。与論出身者が開拓した田代盤山集落からの茶12キロと手作りマスク50枚と合わせて8月上旬に発送し、町職員に島民へ届けてもらいました。
 
散策同好会「いっぺこっぺさるこ会」は、「与論島応援キャンペーン」を展開。黒糖や焼酎など与論の産品購入や1口 500円の寄付を呼び掛けています。錦江町もマスク1万 2,000枚を与論町に送ったそうです。これ以上感染が拡大せずに新型コロナウイルス終息して、美しい島の訪問ができる日が一日でも早く来ることを願いたいです。
 
【参考】
下記のページが参考になります。
(1)盤山 〜 与論島民移住の歴史
    → https://washimo-web.jp/Report/Mag-Banzan.htm
(2)盤山を訪ねて − 鹿児島県肝属郡錦江町
    → https://washimo-web.jp/Trip/Banzan/banzan.htm
(3)ヨロン島の風景 〜 与論島(1) − 鹿児島県大島郡 
    → https://washimo-web.jp/Trip/Yoron/yoron.htm

  
  2020.08.19
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