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旅行記 ・盤山を訪ねて − 鹿児島県肝属郡錦江町 2011.05
ばんざん
盤山
盤山の苦境を救ったお茶は、いま盤山の全域で栽培されています。
鹿児島県奄美諸島の最南端、沖縄本島の北隣に位置する与論島は、東西5km、南北4kmほどの小さな島です。『南海の楽園』とも呼ばれるこの島は、しかし、少ない資源と人口過密に悩まされ、明治期に三池炭鉱へ、第二次大戦中に満州へと、第二の故郷づくりのために集団移住、住民たちが島外において流浪・流転の荒波に揉まれ苦しんだ歴史を持つ島です。地図で与論島の位置を確認する
 新緑の若葉を豊富に蓄えた茶畑は綺麗でした(林立しているの防霜ファンです)。
満州開拓団は昭和19年3月、夢を抱いて満州へ渡ったものの、敗戦により入植わずか2年3ヶ月後には引揚げ。与論島に戻りたくても戻れない人たちは、本土での再開拓を決意し、鹿児島県肝属郡田代村(現錦江町田代麓)に入植しました。地図で盤山の位置を確認する
入植35周年記念碑『拓魂』
 
     昭和五十六年七月十八日
  
拓 魂
      元満州国第十三次与論開拓団
        団長 伊藤佐江吉 謹書
  
昭和十九年三月十日旧満州国錦州省盤山県第十三次与論開拓団に百四十五戸六百三十五名が与論島から分村入植した。敗戦前後の過酷な状況の中で多数の人が犠牲となる。四百三十二人が町清之進氏を団長として肉親の遺骨を抱き、はだか同然で二十一年六月二日引揚げ上陸。内地開拓のため五十四戸百五十六名が七月十八日現在地に入植した。
        開拓団長 町 清之進
        副 団長 池田 福利

  田代入植 
うっそうとした杉などの大木が茂り、見上げても空が見えない。足元は昼なお暗く、イノシシならともかく、人間が果たして生活できるのだろうかと不安がつのる。それでも、田代を開拓地に選んだのは、与論島では確保に苦労した水と薪が豊富にあったからだ。
  
先遣隊が標高500mの急斜面地に切り開いたわずかな山畑にサツマイモや野菜を植え、その後、入植者全員がそろった。数こそ満州移住の時とくらべると減っていたが、多くの試練に鍛えられて、みんなの意志はかたかった。満州で無念の涙をのんで死んでいった人たちのためにも、生き残った者たちが頑張らなければならない、いつしか『満州を忘れるな』がみんなの合言葉になった。開拓地の名前も、満州の開拓地をそのまま引き継いで『盤山』とした。
入植後に亡くなった仲間の慰霊碑
先遣隊が急斜面地に山畑を切り開いた”入植原点の場所”は、いま公民館と公園になっています。
入植当時の主食は、小麦、フスマ、コウリャンなどをだんごや雑炊にし、山野に自生するアザミやツワブキを副食にしました。アザミは葉にトゲがあるので、包丁や鎌で用心深く切り落とす必要がありました。しかし、生活が厳しいことに変わりはなく、集落を離れる人も出てきました。
尾根伝いに切り開かれた茶畑(写真上下)
そんな中で、昭和24年(1949年)に自家水力発電機が設置されると、集落の各家庭に初めて電気がつき、昭和28年(1951年)には開拓道路が完成し、ほかの集落への行き来が楽になりました。昭和27年(1952年)には土地の正配分が決定したため、盤山には30戸が残り、17戸がほかの4つの集落にそれぞれ移転していきました。
茶畑には、摘採1週間ぐらい前から、黒い被い(クレモナ)をかぶせられます。
陸稲や雑穀、水田も作るようになったものの、台風の被害に遭うことが多く、盤山をあきらめてブラジルに再入植しようかと迷う人たちも出てきた入植11年目の昭和32年(1957年)、4戸の開拓農家がお茶の新植に踏み切ります。面積はあわせて30アール(3反)でしたが、これがやがて盤山の苦境を救うことになります。
大原小学校近くから見る盤山地区。麓に移転してきた家が数軒見えます。
盤山には現在23戸の農家があって、21戸がお茶栽培を手がけており、作付け面積は多いところで7〜8町歩(700〜800ha)、少ない農家でも1〜2町歩あるそうです。残り2戸の農家はブロイラー飼育を手がけています。なお、盤山のある錦江町と与論町は現在も姉妹都市の交流を続けています。
10km程手前の田代川原から見た盤山方面(向こうに見える山の中腹あたりが盤山)
 【参考図書】
 
・ 南日本新聞社編『与論島移住史 ユンヌの砂』(南方新社、2005年発行)
 
−編集後記−
同じ鹿児島県内に住みながら、盤山のことを知ったのは、川井龍介著『「十九の春」を探して』(講談社、2007年4月発行)という本を読んだほんの2年前(2009年)のことでした。それ以来、盤山に行ってみたいと思っていた著者は今年(2011年)5月の連休に初めて訪ねました。盤山のある大隅半島とは反対の薩摩半島北部にある自宅から車で片道2時間半をかけて盤山に着くと、標高500m近い山の斜面や尾根伝いに切り開かれた茶畑は、ちょうど茶摘みを待っている時期で、新緑の若葉を豊富にたくわえ綺麗でした。入植時に先遣隊が急斜面地を切り開いたわずかな山畑にサツマイモや野菜を植えたという場所は、今は公民館が建てられた公園になっており、『拓魂』と刻まれた入植35周年の記念碑や入植後に亡くなった仲間のための慰霊碑が建っていました。私たちは、こうした先人たちの苦労があった歴史を知り、後に伝えていかなければならないという思いで、このページを作成しました。下記のページに詳しいレポートがあります。(2011.05.31)
 レポート ・盤山 〜 与論島民移住の歴史
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