レポート  ・盤山 〜 与論島民移住の歴史   
− 盤山 〜 与論島民移住の歴史 −
鹿児島県は80km近く奥まった細長い鹿児島湾(錦江湾)の左右に半島を持つ地形をしています。西が薩摩半島でその南端に指宿市が位置し、一方の大隅半島は薩摩半島よりさらに20kmほど南に延び、先端の佐多岬は本土最南端の岬として知られています。
 
佐多岬から30kmほど鹿児島湾に沿って北上したところに錦江町の町役場があります。そこから20km近く山側に入った山あいに、現在は合併によって錦江町になっている旧田代町盤山(ばんざん)があります。
 
 ・地図で盤山の位置を確認する
  → http://washimo-web.jp/Information/BanzanMap.htm
 
同じ鹿児島県内に住みながら、盤山のことを知ったのは、川井龍介著『「十九の春」を探して』(講談社、2007年4月発行)を読んだほんの2年前(2009年)のことでした。その後、南日本新聞社編の『与論島移住史 ユンヌの砂』(南方新社、2005年発行)や森崎和江・川西到著『与論島を出た民の歴史』(たいまつ社、1971年発行)という本が出版されているのを知りました。
 
1.小さな島・与論島
 
奄美群島に属する鹿児島県最南端の島・与論島は、東西5km、南北4kmほどの小さな島です。かつて『ユンヌ』と呼ばれていたのが変化して与論(よろん)という名前になったといわれます。すぐ南に沖縄本島の岬が見えるほど地理的にもまた文化的にも沖縄に近い島です。
 
エメラルドグリーンの海とサンゴ礁の白い砂浜に囲まれ、ハイビスカスやブーゲンビリアなどの原色の花々が咲き乱れる与論島は『南海の楽園』とも呼ばれ、沖縄が復帰する1972年(昭和47年)頃までは、日本最南端のリゾート地として観光客で賑わったものでした。
 
 ・地図で与論島の位置を確認する
  → http://washimo-web.jp/Information/YoronMap.htm
 
しかし、そうした外見とは裏腹に与論島は、多くの貧しさの条件を秘めていました。せまくて平らな島には川がないため、まず水と薪(たきぎ)を確保するのが容易でありません。土はサンゴ礁の石灰岩が風化してできているため耕作に大変な苦労を強いられました。
 
やっとできた農作物も台風と干ばつで致命的な打撃を受けると大飢饉となり、島は生き地獄と化します。資源が少ない割りに人口の多い与論島は、少なくとも観光ブームが到来するほんの数年前までは、生活のかなり貧しい島で、そのため、明治以来二度の分村、すなわち未知の土地への集団移住がなされたのです。
 
2.『十九の春』のルーツ
 
集団移住を迫られていた明治32年(1899年)、労働力として与論島民に目をつけたのが当時財閥として勢力を伸ばしつつあった三井資本でした。明治32年を皮切りに、多くの人たちが、三池炭鉱(福岡県)で産出される石炭の積出港として賑わう島原半島南端の口之津(長崎県)に、石炭の積込み労働者として集団移住していきました。
 
口之津には一番多いときで、家族もふくめて1200名を越える与論島民が住んでいたといわれます。当時の与論島の人口が5600人程度でしたから、その5分の1以上が移り住んだわけで、まさに『分村』と呼ぶのに相応しかったといえます。やがて三池港が完成して口之津で積込みの仕事がなくなると、今度は大牟田へ集団移住していきました。
 
当時『ラッパ節』という流行(はやり)歌が全国に広まっていて、口之津や三池でも歌われていました。三味線やうたを得意とした与論出身の労働者たちは、過酷な労働条件と差別に耐えながらの生活のなかで、『ラッパ節』をアレンジして、与論への想いを歌い、そして『与論小唄』が生まれました。
 
    ♪ 木の葉みたいな我が与論 何の楽しみないところ
      好きなあなたがおればこそ 嫌な与論も好きとなる 〜
 
    ♪ 貴方(あなた)貴方と焦がれても 貴方にゃ立派な方がある
      いくら貴方とよんだとて 磯の鮑(アワビ)の片思い 〜
 

『与論小唄』は、与論島でも歌われるようになり、さらに出稼ぎ労働者や出兵兵士、林業関係者などによって、沖縄や八重山諸島などへと伝わっていき、やがて、コザ市(現在の沖縄市)で『十九の春』という題名のうたで歌われるようになりました。昭和50年(1975年)に、バタヤンこと田端義夫さんが歌って全国的にヒットします。
 
3.満州移住
 
本来、島外において流浪・流転の荒波に揉まれ苦しんだ与論の人々の悲哀が歌い込まれたうただった『十九の春』には、百余りの歌詞があり、それぞれの人や地域によってそれぞれ違った歌詞や節回しで歌い継がれてきたという変遷の歴史がありました。『与論小唄』に雪の光景を歌った節があるそうです。
 
    ♪ 雪はしんしん降り積もる 障子開ければ銀世界
      さぞや満州は冷たかろ 思えば涙が先に立つ 〜
 

雪の光景は、亜熱帯の与論島にはそぐいませんが、満州に移住していった人たちを想って与論の人たちが歌い、また満州移住者やその後引揚げてきた人たちにも歌い継がれた歌詞だそうです。
 
第二の集団移住として、145戸635名が与論島から旧満州国錦州省盤山県に分村入植したのは、すでに日本軍の敗退が続く昭和19年(1944年)3月のことでした。明治の集団移住が、勢力を伸ばしつつあった近代資本との出会いだったとすれば、昭和の集団移住は、移民を満州へ大量に送り込んで大陸経営を進めようとする日本帝国主義との出会いでした。
 
郷里とは気候風土が大きく異なる極寒の中で、未墾同然の土地を耕して米作りが始まりました。住宅も衣類も飲料水もお粗末な中で、大変な苦労の連続でしたが、それでも入植2年目の夏には稲が順調に生育し、よくここまで来たという安堵感が生れるほどでした。
 
4.三日おくれの敗戦と引揚げ
 
そんな矢先、思いもしなかった事態が起きます。開拓団の団長、副団長をはじめとした幹部や若い男たちが関東軍に召集されたのです。そして、運命の昭和20年8月18日、三日遅れで日本の敗戦が知らされます。すでに日本の敗戦を知っていた現地住民が暴民と化して行動を起こしはじめていました。
 
暴民に取り囲まれて逃げ場を失った開拓団22名がため池に入水自決するという悲劇が起き、一人の同胞の青年が婦女子26名の胸を短刀で刺して自決させるという悲劇が起きました。そうした過酷な運命にさらされながら、開拓団員 432名が肉親の遺骨を抱きつつ、はだか同然で博多に引揚げ上陸したのは昭和21年6月のことでした。わずか2年3ヶ月前に入植した 635名のうち日本に帰れたのは7割に満たない数でした。
 
5.ゼロからの再出発 〜 田代入植
 
やっとのことで日本に帰ってきたものの、与論島を含む奄美諸島はすでに米軍統治下に置かれていて、帰島希望者はヤミ船で帰るしかないでした。家も畑も家財道具もほとんど売り払い、満州へ持って行ったわすかな家財道具もすでに失ったなかで、島に戻りたくても戻れない人たちは、本土での再開拓を決意をします。
 
54戸 156名の満州開拓団引揚げ者が鹿児島県肝属郡田代村に入植したのは、昭和21年7月18日のことでした。うっそうとした杉などの大木が茂り、見上げても空が見えない。足元は昼なお暗く、イノシシならともかく、人間が果たして生活できるのだろうかと不安がつのる。それでも、田代を開拓地に選んだのは、与論島では確保に苦労した水と薪が豊富にあったからでした。
 
先遣隊が標高500mの急斜面地に切り開いたわずかな山畑にサツマイモや野菜を植え、その後、入植者全員がそろいました。数こそ満州移住の時とくらべると減っていましたが、多くの試練に鍛えられて、みんなの意志はかたいでした。満州で無念の涙をのんで死んでいった人たちのためにも、生き残った者たちが頑張らなければならない、いつしか『満州を忘れるな』が合言葉になり、開拓地の名前も満州の開拓地をそのまま引き継いで『盤山』としました。
 
当時の主食は、小麦、フスマ、コウリャンなどをだんごや雑炊にし、山野に自生するアザミやツワブキを副食にしました。アザミは葉にトゲがあるので、包丁や鎌で用心深く切り落とす必要がありました。しかし、生活が厳しいことに変わりはなく、集落を離れる人も出てきました。
 
そんななかで、昭和24年(1949年)に自家水力発電機が設置されると、集落の各家庭に初めて電気がつきました。昭和28年(1951年)には開拓道路が完成し、ほかの集落への行き来が楽になりました。昭和27年(1952年)には土地の正配分が決定したため、盤山には30戸が残り、17戸がほかの4つの集落にそれぞれ移転していきました。
 
このとき、当時の上田政吉村長が『この地区の農業は将来、お茶と畜産でなければならない』とお茶の栽培を奨励し、お茶の種子が無償で配布され、盤山でお茶の栽培が始まることになります。
 
6.お茶栽培との出会い
 
入植して11年目の春、有馬功、芳子さん夫妻らがお茶の新植に踏み切りました。これが、やがて盤山の苦境を救うことになります。陸稲や雑穀、水田も作るようになったものの、台風の被害に遭うことが多く、盤山をあきらめてブラジルに再入植しようかと迷っていた有馬夫妻は、入植時畦(あぜ)に植付けておいたお茶が相次ぐ台風や強い季節風にも負けずに育っていたのに気づきます。お茶こそ盤山の適地適作の作物だと確信した有馬夫妻は、昭和32年(1957年)4戸の農家でお茶の新植に踏み切りました。面積はあわせて30アール(3反)でした。
 
芳子さんは、昭和46年(1968年)に全国『家の光』大会で鹿児島県代表として、お茶栽培の苦労と成果について発表し、最高の栄誉賞である農林大臣賞優秀賞を受賞します。昭和4年(1929年)生れの芳子さんは、16歳のとき満州に渡り、17歳のとき弟妹2人を連れて田代に入植しました。父は南方のニューギニア戦線で戦死しており、母も引揚げの心労から、鹿児島市伊敷の引揚者援護寮でなくなっていました。
 
田代入植5年目の22歳のとき、同じ作業場にいた有馬功さんと結婚しましたが、功さんもまた、幼いころ父を病気で失い、母と4人の弟妹は、満州で一人の同胞の青年に短刀で刺されて自決しており、天涯孤独の身でした。こうした不遇にもめげず、お茶栽培に活路を見出し苦闘した夫妻の苦労と成果に共感が集まったのでした。
 
7.盤山を訪ねて
 
盤山のことを知って以来、盤山に行ってみたいと思っていた著者は今年(2011年)5月の連休に初めて訪ねました。盤山のある大隅半島とは反対の薩摩半島北部にある自宅から車で片道2時間半をかけて盤山に着くと、標高500m近い山の斜面や尾根伝いに切り開かれた茶畑は、ちょうど茶摘みを待っている時期で、新緑の若葉を豊富にたくわえ綺麗でした。
 
入植時に先遣隊が急斜面地を切り開いたたわずかな山畑にサツマイモや野菜を植えたという場所は、今は公民館が建てられた公園になっており、『拓魂』と刻まれた入植35周年の記念碑や入植後に亡くなった仲間のための慰霊碑が建っていました。
 
有馬芳子さんの息子の国登志さん(55歳)が公民館長をされているというのでご自宅を訪ねてみましたが留守で会えませんでした。後日、電話を入れますと当の芳子さん(82歳)がお出になってお話しを伺うことができました。盤山では、現在23戸の農家があって、うち21戸がお茶栽培を手がけており、作付け面積は多い農家で7〜8町歩(700〜800ha)、少ない農家でも1〜2町歩はあるそうです。残り2戸の農家はブロイラー飼育を手がけているそうです。
 
現在も入植当時と同じ山中の場所に一軒家の状態で家を構えているのは有馬さんら3軒だけで、残りの農家は便の良い山の麓に引っ越していきました。山の麓から公民館のある山中にいたる幹線道路沿いには、両脇に延々と紫陽花が植えられていました。これは、芳子さんのご主人の功さんが、入植の原点である場所を忘れてはならないという思いで、たった一人で12年かけて植えられたのだそうです。
 
『とても語れない苦労とみじめな思いの連続でした。30年間町会議員を務めた主人の尽力もあって盤山は幹線道路などの整備も実現しました。その主人も昨年83歳で他界し、残念で寂しい思いです。紫陽花は町役場の方がボランテアで面倒をみて下さっております』と電話で話されたのが印象的でした。与論町と錦江町は現在も姉妹都市の交流を続けています。
 

下記の旅行記があります。
旅行記 ・盤山を訪ねて − 鹿児島県肝属郡錦江町
       → http://washimo-web.jp/Trip/Banzan/banzan.htm
  
【参考にした図書とサイト】
(1) 南日本新聞社編の『与論島移住史 ユンヌの砂』(南方新社、
  2005年発行)
(2) 森崎和江・川西到著『与論島を出た民の歴史』(たいまつ社、
  1971年発行)
(3) 川井龍介著『「十九の春」を探して』(講談社、2007年4月
  発行)
(4) 大原物語 「第3章第2節」
(5) レポート ・十九の春 〜 その変遷
(6) 姉妹都市 / 与論町ホームページ

  

2011.06.01  
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