レポート  ・岩永三五郎と鹿児島『五大石橋』   
− 岩永三五郎と鹿児島『五大石橋』 −
岩永三五郎(いわながさんごろう、1793年〜1851年)は、江戸時代後期に、肥後藩と薩摩藩で活躍した石工で、種山石工(江戸後期、熊本藩八代郡、種山手永に居住していたとされる石工の技術者集団)の中心的人物。
 
熊本藩八代郡に石工宇七の次男として生まれた三五郎は、父より石工としての技術、種山石工の祖『藤原林七』からはアーチ式石橋技術を伝授されたといわれます。石工としての技術やアーチ式石橋技術を学び、肥後の石工の中でも特に卓越した技術を持っていたそうです。
 
肥後領内で、後の通潤橋(つうじゅんきょう)に影響を与えた水路橋として重要であるとされる砥用町(ともちまち)の雄亀滝(おけだき)橋などを造りますが、薩摩藩の招請を受け、西田橋をはじめとする鹿児島『五大石橋』を架設し、石工としての真価を発揮するとともに、肥後の石工の名声を大いに高めました。
 
三五郎が鹿児島市街中央を北西から南東に流れる甲突川に架けた玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の五つの大きなアーチ石橋は『甲突川の五石橋』と呼ばれて親しまれていましたが、1993年(平成5年)8月6日の集中豪雨による洪水(いわゆる8・6水害)で、新上橋と武之橋が流失してしまいました。
 
その後、貴重な文化遺産として後世まで確実に残すため、西田橋、高麗橋、玉江橋の三つの橋が河川改修に合わせて移設・保存されることになり、2000年(平成12年)に、鹿児島市街の北端にある祇園之洲公園内に移設復元され、石橋記念公園として開園しました。
 
その石橋記念公園には、岩永三五郎之像が建てられ、『岩永三五郎顕彰』の由来に次のようにあります。
 
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〜 肥後の石工 岩永三五郎幸安は、寛政五年(1793年)熊本県八代郡東陽村に生まれ、『性質淡薄寡欲にして、まことに良工なりしは人の能く知る所にして、水利を視、得失を考え、大数を測るに敏なる、はじめて見る地といえども神のごとし』と評され、その人物、土木技術のすぐれたること薩摩に聞こえ、天保11年(1840年)、時の家老調所広郷に一族共々招かれ、藩内一円の営繕、土木事業の責任者として、その腕をふるった。
 
すなわち、阿久根の古田修繕、出水、国分、加治木の新田開発、市来の水道、伊集院から出水への道路、山川指宿から鹿児島への道路、鹿児島本港護岸工事(三五郎波止場)、井堰、稲荷川、甲突川の河川改修、西田橋をはじめとするその眼鏡橋の築造は鹿児島、川内、串木野、指宿の各地におよび、三五郎およびその一族にいたっては九州各地に 190余りの眼鏡橋を架橋し、なかでも三五郎の甥丈八は、明治政府に招かれ皇居の二重橋等々を架橋した。
 
薩摩藩在中10年もの間、地元の石工共々その献身的な働きにより幾多の土木事業を成し遂げた。岩永三五郎は、嘉永2年(1849年)薩摩を去り、嘉永四年(1851年)10月5日、八代郡鏡町芝口にて59才で没す。ここに岩永三五郎はじめ、その一族の労苦に思いを馳せ、その偉業を後世に伝えるものである。平成2年10月5日 〜
 
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薩摩藩内における最後の仕事として三五郎が手がけたのが、高江(現在の薩摩川内市高江町)八間川の大開削工事でした。薩摩藩への最後の御奉行として惜別の情を込めて架けたといわれる『江之口橋』は今も当地に残っています。
 
石橋の建造中、石橋建造技術の漏洩防止のため、薩摩藩は三五郎たちを暗殺するのではないかという噂が立ちます。これは、三五郎が藩の内情に通じ過ぎたという事情もありました。かねてよりこのことを心配していた三五郎は、連れてきた仲間たちを様々な口実をつけて肥後に返しました。嘉永2年(1849年)に江之口橋が完成すると、最後まで残った三五郎自身も同年帰郷を許されます。
 
三五郎は薩摩から肥後へ帰る途中、現在の出水市付近で薩摩藩の刺客に捕らえられますが、三五郎の人柄をよく知っていた刺客はどうしても彼を殺すことができず、秘密裏に三五郎を逃がしたと言われる。故郷に戻った三五郎は、2年後の嘉永4年(1851年)、鏡町(現八代市)にて59歳で没しました。同地には現在でも墓が存在するそうです。
 
つぎの旅行記があります。
旅行記 ・石橋記念公園 − 鹿児島市
 
【参考にしたサイト】
(1)岩永三五郎−Wikipedia
(2) 肥後の石工・岩永三五郎(ふるさと寺小屋)
 
 

2012.09.12  
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