♪Prologue
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石橋記念公園 − 鹿児島市
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鹿児島市街中央を北西から南東に流れる甲突川には、上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋というの五つの大きなアーチ石橋が架かり、『甲突川の五石橋』と呼ばれて親しまれていました。これらの石橋は、今から160数年前の江戸時代末期の1940年代に架けられたもので、薩摩藩の財政と肥後から招かれた名石工「岩永三五郎」の架橋技術を誇る歴史的所産でした。創建以来150年余の間、現役の橋として利用されてきましたが、1993年(平成5年)8月6日の集中豪雨による洪水で、新上橋と武之橋が流失してしまいました。その後、貴重な文化遺産として後世まで確実に残すため、西田橋、高麗橋、玉江橋の三つの橋が河川改修に合わせて移設・保存されることになりました。2000年(平成12年)に、鹿児島市街の北端に位置する祇園之洲公園内に移設復元され、石橋記念公園として開園しました。園内には、また薩英戦争記念碑、薩英戦争の砲台跡や西南の役戦没者慰霊塔などがあり、鹿児島の歴史を知る場の一つとして、市民の憩いの場として広く県民に親しまれています。                                    (旅した日 2004年10月)
西田橋

西田橋は、九州街道の道筋にあって参勤交代の列が通った橋でした。城下の玄関口として、西田橋の左岸には西田橋御門があって、城下の武士や町人、旅人は御門脇の番所で改めを受けて通行していたといわれます。橋を渡った所にその西田橋御門が再現されています。高欄部分には、丸柱に丸手すり、その親柱には擬宝珠(ぎぼうし)がのせられています。

御門を持つ西田橋は、アーチと水切石の幾何学がとても美しいです(写真上左)。丸柱に丸手すり、擬宝珠(ぎぼうし)をかぶった親柱(写真上右)。再現された西田橋御門(写真下左)。西田橋のアーチから眺める桜島(写真下右)。太鼓状の石畳も美しいです。夏になると、橋の下は子供たちの絶好の水遊び場となります。〔形式:石橋四連アーチ、石工:岩永三五郎、橋長:49.5m、橋幅: 6.2m、完成:1846年〕
高麗橋
岩永三五郎(1793〜1851)
  
寛政5年(1793年)、八代郡野津手永西野津村(現在の熊本県竜北町)に石工宇七の次男として生まれました。父より石工としての技術、種山石工の祖「藤原林七」からはアーチ式石橋技術を伝授されたといわれます。石工としての技術やアーチ式石橋技術を学び、肥後の石工の中でも特に卓越した技術を持っていたと言われます。肥後領内で、後の通潤橋(つうじゅんきょう)に影響を与えた水路橋として重要であるといわれる砥用町(ともちまち)の雄亀滝(おけだき)橋などを造りますが、1840年代半ばに、薩摩藩の招請を受けて、西田橋をはじめとする鹿児島「五大石橋」を架設し、石工としての真価を発揮するとともに、肥後の石工の名声を大いに高めました。
高麗橋(写真上左、下右)。高麗橋の近くに建てられている岩永三五朗の石像(写真上右)。高麗橋の両岸、加治屋町と高麗町からは明治維新の志士たちが多く輩出しました。〔形式:石橋四連アーチ、石工:岩永三五郎、橋長:54.9m、橋幅: 5.4m、完成:1847年〕
玉江橋
玉江橋(写真上左)。園内に建てられた西南の役戦没者慰霊塔(写真上右)。石橋記念公園の近くの海岸線から眺める錦江湾と桜島(写真下)。〔形式:石橋四連アーチ、石工:岩永三五郎、橋長:50.7m、橋幅: 4.0m、完成:1849年〕
【備考】このページの説明文は、下記のサイトを参考にさせて頂きました。
石橋記念公園(石橋記念公園公式ホームページ)
岩永三五郎 
肥後の石工・目鑑橋について
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