レポート  ・浅井長政   
− 浅井長政 −
浅井長政(あざいながまさ、1545〜1573年)は、戦国時代(室町時代末期)の武将で、北近江の戦国大名。浅井家の3代目にして最後の当主。茶々(豊臣秀吉側室)・初(京極高次正室)・江(ごう)(徳川秀忠継室、徳川家光の生母)、いわゆる浅井三姉妹の父であり、豊臣秀頼や三代将軍徳川家光の外祖父。なお、名字および所領地の浅井の読みは『あざい』が正しいとされています。
  
第二代当主久政の嫡男として六角氏の居城・南近江の観音寺城下(現在の滋賀県近江八幡市安土町)に生まれます。浅井氏は元々は、近江源氏佐々木氏を源流とする守護・京極氏の被官でしたが、初代当主浅井亮政が下克上によって京極家中における実権を掌握して守護にのしあがったもので、勢力拡大とともに京極氏の本家筋にあたる六角氏と対立するようになります。
  
二代当主久政(長政の父)の代には初代が手に入れた領地も失い、六角氏に臣従していました。このような状況に家臣たちの不満がつのる中で、永禄3年(1560年)、長政は15歳の若さで軍を率い、六角軍を相手に見事な戦ぶりを披露しました。これによって重臣たちの長政に対する信頼と期待が高まります。家臣たちは久政に家督を長政に譲ることを強要し、久政は強制的に隠居させられることとなり、一時、琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)に幽閉されたほどでした。
  
1560年代、織田信長は美濃国斎藤氏との膠着状態を打破するため、長政に同盟を提案します。浅井氏と元々から盟友の関係にあった越前の戦国大名朝倉氏と信長は歴史的な不仲にあったので、長政は悩みます。特に隠居してもなおも発言力を持ち続けた父久政は、朝倉氏との友好関係に固執し、新興勢力の織田氏との同盟関係の構築には終始反対し続けたとされます。
  
 
浅井長政肖像画(高野山持明院蔵)ウィキペディアより
  
最後は長政の決断により、『織田は朝倉に進軍しないこと、万が一朝倉に進軍する時は必ず一報を入れること』という条件を付した上、織田氏と同盟を結びました。そして、信長の命により長政は、永禄10年(1567年)に信長の妹で絶世の美女といわれたお市の方を娶(めと)り、織田氏との同盟のもとで浅井氏の全盛期を築きいていきます。
   
しかし、元亀元年(1570年)、信長は長政と交わした『朝倉への不戦の誓い』を破り徳川家康とともに琵琶湖西岸を通過して越前の朝倉氏の城を攻め始めます。朝倉氏との同盟関係を重視した長政は、織田・徳川軍を背後から急襲しますが、殿(しんがり)を務めた羽柴秀吉らの働きにより、信長は命からがら近江を脱出しました。
 
同年6月、長政は朝倉軍とともに姉川の戦いで織田・徳川連合軍と戦いますが、前半は優勢であったものの、最終的には数に勝る織田・徳川軍の前に敗れ去ります。その後、浅井氏と協力関係にあった比叡山延暦寺が信長の焼き討ちにあい壊滅し、反織田勢力として頼みの綱であった武田信玄が元亀3年(1572年)10月西上を開始しするも、翌年4月志半ばで病死してしまいます。
 
これによって、大軍勢を浅井・朝倉に向けることが可能になった信長は、天正元年(1573年)7月、3万の軍を率い再び北近江に攻め寄せます。長政は朝倉義景に援軍を要請、義景は2万の軍で駆けつけたものの織田の軍勢が北近江の城を落とし始めるとまともに交戦もしないうちに越前に撤退を始めました。信長は逃げる朝倉軍を追撃し滅亡させました。
 
もはや長政に反撃の手段は無く、ついに本拠の小谷城(おたにじょう、現滋賀県長浜市)が織田軍に囲まれます。しかし、長政を高く評価していた信長は何度も降伏勧告を行いました。裏切りを嫌う信長にしては破格の案も出し、羽柴秀吉などを使者として送らせましたが長政は断り続け、最終勧告も決裂しました。
 
浅井長政夫人(お市の方)肖像画(高野山持明院蔵)
北の庄城址公園(福井市)で撮影
  
長政と仲睦まじかったお市の方は運命を共にする決意でしたが、長政から諌(いさ)められ帰還を決意しました。お市が茶々、初、江の3人の娘とともに信長の陣営に帰還するときには、織田軍からも一切の攻撃がなかったいわれます。お市の方26歳。長政は父の久政と共に小谷城内にて自害。享年29。浅井家と織田家の友好関係が断絶した後も、長政とお市の方の夫婦関係は周りが羨むほど仲睦まじかったといわれます。
   
下記の旅行記があります。
  
旅行記 ・小谷城址 − 滋賀県長浜市
 
【参考サイト】
本レポートは、ウィキペディアの浅井長政、浅井久政、お市の方のページなどを参考にして書きました。
  

2010.12.14  
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